ふみさんの日々雑感

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臓器移植法

2009-07-04 10:36:44 | Weblog
脳死は人の死か?難しい問題だと思う。

もし、親が平均寿命を過ぎて脳死状態になったら、悲しくて一杯泣くだろうが、多分、寿命と思い受け入れるだろう。

でも、もし、私の子供たちが脳死状態と言われ、でも、体が暖かく心臓も動いていれば、たとえそれが機械の力であっても、なかなか受け入れられないだろう。誰かの命を助ける事が出来るだろうと思っても、私には決断が出来ないと思う。

何十年も昔、私が中学2年生の時だった。クラス替えがあり、私の前の席に座った男の子は初めて見る子だった。彼は小学校も違い、学校も時々休み、男の子でもあり、それまで私とは接点が無かった。

先生が「○○君は心臓弁膜症という病気です。体操や運動は出来ません。重い物も持つ事が出来ません。時々は学校も休むと思います」と言われた。その時言われた“心臓弁膜症”と言う言葉は、今でも忘れられないほど強烈だった。

彼は、外に出ず、病気の為だろうと思うが、とっても色白な男の子だった。でも、病気とは思えないほど背も高くふっくらとしていた。イタズラ好きでヤンチャな男の子だった。私の前の席だったので、授業中でもしょっちゅう後ろを振り向いて笑っていたのを覚えている。

一学期の終わり頃、彼は体調を崩して休んだ。そして、夏休みに入り、私達は彼の訃報を聞く。

今と違い、昔の田舎だったからか、彼は最後まで自宅で療養していた。もう、歩けなくなった彼をお母さんはオブってトイレに連れて行ったそうだ。「体格の良かった息子が背中で軽くなって行くのが悲しかった」と言っていた。そして、成長して大きくなって行くと、心臓が耐えられなくなって来るので、大人にはなれないだろうと言われていたので、覚悟は出来ていたと。

私達は、お葬式で一杯泣いた。そして、彼の事はいつの間にか、夢の中のひとこまのように忘れて行った。

最近、時々、彼の事を思い出す。あの頃は、臓器移植なんて言葉はなかったし、人の生も死も自然の成り行きだった。助かる望みが無いのであれば、悲しみは覚悟を決めて受け入れて生きて行くよりしょうがない。

でも、今だったら、彼には心臓移植という生きる道がある。親にとっても、子供を失わなくていい道がある。でも、それは、はたして最良の道なのだろうか。

心臓移植には莫大なお金が必要だ。そして、それは日本では非常に困難な望みである。生きる方法があり、望みがある、でも、難しいとなれば、苦しみや悲しみや悔しさは余計に増すのではないだろうか。

新聞の投書欄で、臓器移植法の事を不妊治療を受けている女性が書いていた。子供は天からの授かりものと言われた時代だったら、子供がいない生活を受け入れて生きていけるだろうが、今は、治療の辛さと、いつまで続けたらいいのだろうと、無限の苦しみを感ずる。今の時代は諦めて受け入れて生きていくのが難しいと。

医学の進歩や文明の発達は、人類を幸せに平和にしてくれているのだろうか。イエスであり、ノーなんだろうな・・・。難しい・・・。

コメント
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