夫が、眠っているお寺さんで、東北被災地への参拝旅行のツアーがあるというので参加した。
夫の遺骨をどこに納めたらいいのか随分迷った。
墓地購入をめぐるバスツアーにも参加した。でも、墓地はだいたい不便な所にあり、将来、私が眠るのも躊躇したし、第一、子供達がお参りに来てくれるだろうか、と思って、止めにした。
それで、考えたのが、もっと便利な所で、子供達も来やすい所で、とネットで調べた。
その時に考えたのが、私の家と夫の家の宗教が同じだった事もあり、その線で探した。
そして、見つけたのが、新宿区内の最寄駅から1~2分のお寺さん。そこに、納骨堂があるとの事で、子供達と行って話を聞き、そこに決めた。
そのお寺さんは、今、東京大地震が取りざたされている事もあり、耐震構造にする為に立て直し、その時に今の時流に合わせて、納骨堂と永代供養墓を作った。
それで、その納骨堂に夫を納める事にした。
今は、本当に良かったと思っている。何といっても行きやすい。だから、毎月、月命日の前後に行って、静かに夫と語らっている。時には、一時間くらいもいる時もある。暑さ寒さも天候も気にならず、個室の為、時に泣いても誰にも分からない。
夫が勤めていた会社の人が、「お墓参りに行きたい」 と言われたが、行きやすいし、お参りしやすい。
一人で、こういう宗教関係の旅行に参加は、始め、ちょっと躊躇する気持ちもあった。
でも、案ずる事はなかった。
私のように、女性一人で参加する人も多くて、直ぐに、前からの友達のように親しくなった。
新幹線で仙台駅に到着して、バスに乗る。
最初に行ったのが、東北別院。
そこで、皆で、お数珠を手に、住職さんとお経をあげる。
その後で、ビデオを見ながら、地震と津波の時の話を聞く。
テレビ等で知っている事ではあるが、やっぱり、胸が痛む。
バスに乗っている時にも、ガイドさんや、あるいは地元の人が乗って来て、当時の大変だった話をして下さった。
道路のポールの上の方には、「ここまで津波浸水区間」 の看板が所々に設置してある。私達のバスよりもずっと高い。テレビで○○メートルと言われるよりは、こうして実感すると、その、高さに恐怖する。
ガイドさんがおっしゃった。今、やっとガレキが無くなった状態 だという。これから、やっと復興に踏みだす所だと言う。
確かに、バスから見る津波で流された海岸の町は、本当に何にも無い。ガレキも無く、ただ、空き地が広がっているだけ。きっと、ここに家があったのだろうと思われる土台があったりはするが。
そして、あの “大川小学校跡” 。
何にも無い所に、大川小学校だった無残な姿の学校がある。学校の周りには、人々が住む家々があったのだろうに、見事に何もない。
そして、テレビや写真で見た私の中の風景と、あまりにも違う。実際に見る風景は、小さな集落だった。
テレビで、地図を示して、小学校と避難をしょうとしていた川べりの高台と、学校からの山々の距離感が、現地に来て見て初めて実感。
テレビでは、避難場所が遠く思ったが、大人が走っても2分もかからないだろう。山までだって、走ってもたいした距離ではない。
高台から学校をパチリ。
家々が立ち並んでいたとしても、そんなにどっちに向かっても時間はかからない。
ただ、思うのは、海の方向には家々があったり、高い堤防があったりで海も川も見えない事だ。結果論だけど、もし、誰か一人でも、走って (大人だったら走っても近くの堤防まで1分もかからないだろう) 堤防に登って海の方を見たら、ただ事ではない事に気が付いただろう。
地元の人が語ってくれた事によると、子供達が何人も泣きながら 「山に逃げよう」 と言ったそうだ。
でも、住民たちも避難して来ていて、中には山に登るのも困難な老人達もいて、山に行くよりは、学校よりも少しでも高い高台に行こうとしたそうだ。
皆で、そっちに向かって歩き出した時に、津波が襲って来た。一番後にいた先生が、とっさに一番後ろにいた子供を一人づつ両脇に抱えて山に走って、その三人は助かったそうだ。
その先生は、その後、心を病んで今はどこにどうしていらっしゃるか分からないそうだ。
そこの祭壇にお坊さんがお経を読み、私達は手を会わせて無くなった子供達や一緒に無くなった大人達のご冥福を祈った。
その後、他の宗教の方々が来て、やっぱりお祈りをしていた。その声がお線香の煙に乗って天に登って行った。
高い高い堤防を作る事も必要かも知れないが、海が見えない事は怖い事だと、大川小学校で思った。
実際に、あの津波が来る前には海の水が遠くまで引き、長靴で歩ける程に海の水が無くなり、それを見て、「大きな津波が来るぞーー」 と叫びながら自転車で逃げて助かった人が言っていたそうだ。
その人も、もし、その海の水が引いた状態を見ていなかったら、はたして避難していただろうか。
震災後すぐに天皇皇后両陛下がヘリで降り立った中学校へ行った。
その中学校は、海から22メートルの高台にある。その中学校の一階の窓ガラスが津波で壊れたそうだ。
その崖の上から海を望むと、海は遥かに下。津波が私達の背までも越えて校舎の方へ行ったなんて、想像できなかった。
青く輝く眼下の海が、大きく膨らんで私を襲うシーンは、どうしても実感出来ない。
そして、あの防災センター。最後まで非難を呼び掛けたあの防災センター。
一面、何も無い草原の中に赤茶けた鉄筋の骨組みだけが佇んでいた。テレビで見た、生き残った人達が必死につかまっていた屋上の鉄塔が心もとない。
この防災センターを残そうか壊そうかでもめているらしい。
今、記憶に残る物が次々と壊されて行く。残したいと言う人と、見たくないと言う人と。
お坊さんがおっしゃった。広島の原爆ドームがあるから、世界中の人達が訪れ、核を無くそうという思いになる。
あの、巨大津波の恐怖を忘れないように、後世に残す為にも、シンボルになるものが必要なのではないか。それがあれば、皆が訪れ、あの巨大津波を思い出し、死者を想い弔う事が出来るしのではないだろうか、と。
確かに、記念碑だけでは津波の恐怖は忘れて行くかも知れない。
ホテルは、あの南三陸町・ホテル観洋。
2階に、お風呂がある。そのお風呂まで津波が来たそうだ。
露天風呂に入って、遥かに下にある海が、ここまで盛り上がって来たなんて…。一緒に入っていた人と、「信じられないし、想像も出来ないね」 と話した。
美しく穏やかに光輝く海が、黒く盛り上がり悪魔の翼を広げた魔物に変わり、人々に襲い掛かり、全てを覆い尽くして流し破壊の限りを尽くした海と同じとは…。
心が疲れた一日だった。
夫の遺骨をどこに納めたらいいのか随分迷った。
墓地購入をめぐるバスツアーにも参加した。でも、墓地はだいたい不便な所にあり、将来、私が眠るのも躊躇したし、第一、子供達がお参りに来てくれるだろうか、と思って、止めにした。
それで、考えたのが、もっと便利な所で、子供達も来やすい所で、とネットで調べた。
その時に考えたのが、私の家と夫の家の宗教が同じだった事もあり、その線で探した。
そして、見つけたのが、新宿区内の最寄駅から1~2分のお寺さん。そこに、納骨堂があるとの事で、子供達と行って話を聞き、そこに決めた。
そのお寺さんは、今、東京大地震が取りざたされている事もあり、耐震構造にする為に立て直し、その時に今の時流に合わせて、納骨堂と永代供養墓を作った。
それで、その納骨堂に夫を納める事にした。
今は、本当に良かったと思っている。何といっても行きやすい。だから、毎月、月命日の前後に行って、静かに夫と語らっている。時には、一時間くらいもいる時もある。暑さ寒さも天候も気にならず、個室の為、時に泣いても誰にも分からない。
夫が勤めていた会社の人が、「お墓参りに行きたい」 と言われたが、行きやすいし、お参りしやすい。
一人で、こういう宗教関係の旅行に参加は、始め、ちょっと躊躇する気持ちもあった。
でも、案ずる事はなかった。
私のように、女性一人で参加する人も多くて、直ぐに、前からの友達のように親しくなった。
新幹線で仙台駅に到着して、バスに乗る。
最初に行ったのが、東北別院。
そこで、皆で、お数珠を手に、住職さんとお経をあげる。
その後で、ビデオを見ながら、地震と津波の時の話を聞く。
テレビ等で知っている事ではあるが、やっぱり、胸が痛む。
バスに乗っている時にも、ガイドさんや、あるいは地元の人が乗って来て、当時の大変だった話をして下さった。
道路のポールの上の方には、「ここまで津波浸水区間」 の看板が所々に設置してある。私達のバスよりもずっと高い。テレビで○○メートルと言われるよりは、こうして実感すると、その、高さに恐怖する。
ガイドさんがおっしゃった。今、やっとガレキが無くなった状態 だという。これから、やっと復興に踏みだす所だと言う。
確かに、バスから見る津波で流された海岸の町は、本当に何にも無い。ガレキも無く、ただ、空き地が広がっているだけ。きっと、ここに家があったのだろうと思われる土台があったりはするが。
そして、あの “大川小学校跡” 。
何にも無い所に、大川小学校だった無残な姿の学校がある。学校の周りには、人々が住む家々があったのだろうに、見事に何もない。
そして、テレビや写真で見た私の中の風景と、あまりにも違う。実際に見る風景は、小さな集落だった。
テレビで、地図を示して、小学校と避難をしょうとしていた川べりの高台と、学校からの山々の距離感が、現地に来て見て初めて実感。
テレビでは、避難場所が遠く思ったが、大人が走っても2分もかからないだろう。山までだって、走ってもたいした距離ではない。
高台から学校をパチリ。
家々が立ち並んでいたとしても、そんなにどっちに向かっても時間はかからない。
ただ、思うのは、海の方向には家々があったり、高い堤防があったりで海も川も見えない事だ。結果論だけど、もし、誰か一人でも、走って (大人だったら走っても近くの堤防まで1分もかからないだろう) 堤防に登って海の方を見たら、ただ事ではない事に気が付いただろう。
地元の人が語ってくれた事によると、子供達が何人も泣きながら 「山に逃げよう」 と言ったそうだ。
でも、住民たちも避難して来ていて、中には山に登るのも困難な老人達もいて、山に行くよりは、学校よりも少しでも高い高台に行こうとしたそうだ。
皆で、そっちに向かって歩き出した時に、津波が襲って来た。一番後にいた先生が、とっさに一番後ろにいた子供を一人づつ両脇に抱えて山に走って、その三人は助かったそうだ。
その先生は、その後、心を病んで今はどこにどうしていらっしゃるか分からないそうだ。
そこの祭壇にお坊さんがお経を読み、私達は手を会わせて無くなった子供達や一緒に無くなった大人達のご冥福を祈った。
その後、他の宗教の方々が来て、やっぱりお祈りをしていた。その声がお線香の煙に乗って天に登って行った。
高い高い堤防を作る事も必要かも知れないが、海が見えない事は怖い事だと、大川小学校で思った。
実際に、あの津波が来る前には海の水が遠くまで引き、長靴で歩ける程に海の水が無くなり、それを見て、「大きな津波が来るぞーー」 と叫びながら自転車で逃げて助かった人が言っていたそうだ。
その人も、もし、その海の水が引いた状態を見ていなかったら、はたして避難していただろうか。
震災後すぐに天皇皇后両陛下がヘリで降り立った中学校へ行った。
その中学校は、海から22メートルの高台にある。その中学校の一階の窓ガラスが津波で壊れたそうだ。
その崖の上から海を望むと、海は遥かに下。津波が私達の背までも越えて校舎の方へ行ったなんて、想像できなかった。
青く輝く眼下の海が、大きく膨らんで私を襲うシーンは、どうしても実感出来ない。
そして、あの防災センター。最後まで非難を呼び掛けたあの防災センター。
一面、何も無い草原の中に赤茶けた鉄筋の骨組みだけが佇んでいた。テレビで見た、生き残った人達が必死につかまっていた屋上の鉄塔が心もとない。
この防災センターを残そうか壊そうかでもめているらしい。
今、記憶に残る物が次々と壊されて行く。残したいと言う人と、見たくないと言う人と。
お坊さんがおっしゃった。広島の原爆ドームがあるから、世界中の人達が訪れ、核を無くそうという思いになる。
あの、巨大津波の恐怖を忘れないように、後世に残す為にも、シンボルになるものが必要なのではないか。それがあれば、皆が訪れ、あの巨大津波を思い出し、死者を想い弔う事が出来るしのではないだろうか、と。
確かに、記念碑だけでは津波の恐怖は忘れて行くかも知れない。
ホテルは、あの南三陸町・ホテル観洋。
2階に、お風呂がある。そのお風呂まで津波が来たそうだ。
露天風呂に入って、遥かに下にある海が、ここまで盛り上がって来たなんて…。一緒に入っていた人と、「信じられないし、想像も出来ないね」 と話した。
美しく穏やかに光輝く海が、黒く盛り上がり悪魔の翼を広げた魔物に変わり、人々に襲い掛かり、全てを覆い尽くして流し破壊の限りを尽くした海と同じとは…。
心が疲れた一日だった。