ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

私のお雛様

2008-02-08 21:52:41 | Weblog
私にはお雛様が無かった。三人姉妹だったが、ウチにはお雛様が無かった。子供の頃、私の村にはお雛様を飾っている家は金持ちの家しかなかった。友達は誰も飾っていなかったし、だから欲しいとも思わなかったし、そんなもんだと思っていた。

でも、大きくなって漠然と私のお雛様が欲しいなと思っていた。

結婚して長男が生まれた。“神田川”の世界だった。結婚して2年目のひな祭りが近づいた頃、夫が私のために小さな可愛いお雛様を買って来てくれた。嬉しかった。小さなアパートでは、飾る所はタンスの上だけだった。手作りの小さなひな壇にお雛様は飾られた。

長女が生まれて、今度は彼女の為に、毎年、夫が飾ってくれた。今度は大き目のひな壇を作り、そこに彼女の人形や息子のロボットも勢ぞろいで飾られた。

転勤で、何回も引越しをしたが、必ず夫は飾ってくれた。

子供たちも大きくなり、又、私の為のお雛様になった。

又、小さなひな壇になり、可愛くお座りしている。見ているだけで、平和な心になる。
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クリエーション博物館

2008-02-04 22:24:48 | Weblog
アメリカのケンタッキー州にある「クリエーション(天地創造)博物館」に行ってみたい。昨年オープンしたばかりの博物館。朝日新聞に、行った感想が載っていた。野次馬として、不思議大好きな私としては、見てみたい。

娯楽施設並みの凝りようらしい。展示責任者がユニバーサル・スタジアムでジョーズの模型を制作した人なのだそうだ。地球と人間の歴史が始まりから展示されているのである。

そして、そこで展示されている歴史は、私達が知っている歴史とは違う。地球の歴史は6千年前から始まり、恐竜と人間が同時代に生きている。人間は初めから人間なのである。原人もネアンデルタール人も北京原人も存在しないのである。

そう、人間の始まりはアダムとイブで、ノアの方舟の模型は130体・・・。

「聖書は神が書いた言葉。天地創造は真実」と考える信仰厚きキリスト教の一派の人々が作った博物館なのだ。そして、「米国は神に祝福された国であり、全世界に責任を持っている」と信じている彼ら。

イスラム教といい、私には宗教が分からない。子供が生まれれば神社に、七五三も成人式も新年も神社。結婚式は神社であったり、仏前であったり、教会であったり、又はしなかったり。人生最後はお寺でお経。そして、クリスマスもあり。

宗教なんて、いつもウヤムヤに生きて来た私には、信仰心厚い彼らが武器を持ってイラクへ乗り込んで行く事に違和感を感ずる。イスラエルやパレスチナの国の人達も、共に信仰心厚き人々であるのに。

地球の始まりが45億年前と6千年前からでは、生きて行く為のより所が根本から違って来る。6千年前から人間の歴史が始まったとなれば、地球は人間の周りしか考えられない狭い世界になってしまう。

45億年前からの地球の歴史を見つめれば、原始細胞から進化して無数に枝分かれし、膨大な時間の後に花開いたこの溢れる生命の多様性。そして、天空に広がる無限の宇宙。

それに比べれば、私達が生を全うするには、あまりにも短い時間。私も、私の周りの人も、日本人も、アジア人も、アメリカ人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、皆、地球の年齢からみれば、哀れなほどの人生時間。

自分の命が大事なら、他の全ての人達の人生も大事だとどうして想像出来ないのだろう。他の人間よりも、自分の神様が一番大切なのだ、という事が、私にはどうしても理解出来ない。

昇る太陽に手を合わせ、沈む太陽に無事な一日を感謝し、しっとりと降る雨に慈愛を感じ、梢を渡る風に離れて住む年老いた母を思い、咲き乱れる花々に幸せを感じ、田んぼや畑の作物に豊かさを感じ、遊び戯れる子供達の声に彼らの未来の幸せを思う・・・。

こんな宗教観ではいけないのだろうか。

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雪がふりつむ

2008-02-03 14:14:49 | 花と自然
朝起きたら雪が積もっていた。ビックリ!この間、雪が降った時には積もった所を見なかった。今日は日曜日なので、ゆったりと、降る雪を見ていた。

そして、フッと思い出した。多分、小学生の時だったと思うが、教科書に載っていた詩。この詩を読んだ時に感じた思いが、何十年経った今、浮かび上がって来た。


   
    雪             三好達治


     太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

     二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。


小学校の教室で、この続きを心の中で読んでいた。

三郎をねむらせ、三郎の屋根に雪がふりつむ
四郎をねむらせ、四郎の屋根に雪がふりつむ
五郎をねむらせ、五郎の屋根に雪がふりつむ
     ・
     ・
     ・

教室の私の周りは屋根屋根に雪を積もらせた家々が続き、その家の中で、子供達がヌクヌクと平和の眠りに幸せの夢をみている。雪明りの夜は深々と降り続く雪に沈んでいる。

今と違い、私の小学校の頃は家にTVもなく、世界は住んでいる村だった。都会も、もちろん外国なんて架空の世界だった。

この詩は、豪雪地帯に住む私の世界。冬には、本当に村は雪の中に埋もれてしまうのだ。暗くて、寒い長い長い冬。

でも、田んぼも畑も雪の下になった冬は、一日中父母が家にいる。朝食はゆったりと一緒に食べれる。学校から帰ってくれば「おかえり」と母が家にいる。父も作業場で藁仕事をしている。皆で雪のふりつむ屋根の下でトランプやカルタをしていた。おばあちゃんが怖い怖い昔話をしてくれた。

TVもありネットもあり、こんなに狭くなった世界から昔を見ると、私の子供の頃の世界には無限の広がりを感ずる。空想の世界は制限も制約もなかった。

トトロもマックロクロスケも猫バスも、本当に私の子供の頃の村にはいたのだ。のんちゃんと一緒に雲に乗って旅にも行った。銀河鉄道に乗って宇宙の星々にも行った。雪がコンコンと降る深夜には雪女が現れた。そして狸や狐に人は騙された。

私は、時々、思う。ただのノスタルジアかもしれないが、今のようにすべてがクリアでハッキリした色彩の世界でなく、クリーンでも無臭でもなく、そして何もなかった世界で子供時代を過ごした事を良かったのかなと。

単調な日々の繰り返しの子供時代だったが、心の中にはそれなりに思い出が一杯ある。時々、何かの拍子に、フッと思い出し、子供の私を愛おしく思う。

でも、私の生まれた村は、あまりにも変わってしまった。もう、夢想する空間ではなくなった。寂しい。







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