碑文谷公園で遺体で発見された88歳の女性のマンションが、数年前まで僕が自転車で歯科医に通院していた頃よく通った環七道路の駒沢陸橋交差点の近くなのを知って驚いた。碑文谷公園も女性のマンションも、方向は違うが、わが家から直線距離にすれば、1000mぐらいで、同じ生活圏内で起きた事件である。それだけに関心が深い。
もう一つ、僕ら僕ら老夫婦の関心事は、ほぼ同年齢の女性の一生である。88歳といえば戦争に振り回された世代である。昭和3年(1928年)生まれで、12年、日支事変が起きた時には小学校3年。16年大東亜戦争勃発時は高等女学校1年生であった。当時高等女学校は5年制であったが、3年生時から勤労動員され、20年には1年繰り上げられ4年で卒業している。同世代の岡野薫子さの書いた「太平洋戦争下の学校生活」(新潮社 1990年)によれば”節目節目に戦争が重なって明日の生命も知れない毎日”であった。
戦後もこの世代は。結婚相手世代の男性が戦争で亡くなり、結婚難であった。それに、戦後の苦しい生活の中で、おしゃれも出来ずグルメも楽しめなかった。犠牲になった女性は、御主人のなくなった後、マンションで一人ずまいして、フラダンスや英会話などの習い事を楽しんんでおられたという。彼女の一生にとっては最高な時であっただろう。その幸せをこのような方法で奪い去るとは許せない。一時も早く事件が解決されるのを望んでいる。
もう一つ、僕ら僕ら老夫婦の関心事は、ほぼ同年齢の女性の一生である。88歳といえば戦争に振り回された世代である。昭和3年(1928年)生まれで、12年、日支事変が起きた時には小学校3年。16年大東亜戦争勃発時は高等女学校1年生であった。当時高等女学校は5年制であったが、3年生時から勤労動員され、20年には1年繰り上げられ4年で卒業している。同世代の岡野薫子さの書いた「太平洋戦争下の学校生活」(新潮社 1990年)によれば”節目節目に戦争が重なって明日の生命も知れない毎日”であった。
戦後もこの世代は。結婚相手世代の男性が戦争で亡くなり、結婚難であった。それに、戦後の苦しい生活の中で、おしゃれも出来ずグルメも楽しめなかった。犠牲になった女性は、御主人のなくなった後、マンションで一人ずまいして、フラダンスや英会話などの習い事を楽しんんでおられたという。彼女の一生にとっては最高な時であっただろう。その幸せをこのような方法で奪い去るとは許せない。一時も早く事件が解決されるのを望んでいる。