明日、11月8日は暦の上では立冬だが、昔からわが国では立冬前後には暖かい春のような陽気が続き「小春日和」と呼んでいる。一昨日、この小春日和に誘われて、近所に住む70年来の友人二人と連れだって弁当持参で東京の砧(きぬた)公園へ散策に出かけた。
東京ドームの恐らく数十倍はある広い公園はまだ紅葉には早かったが、千本近くあるケヤキ林は晩秋のたたずまいを見せ、シラカシの木の下では親子連れがちいさなどんぐり拾いを楽しんでいた。よく手入れされた芝生近くに植えられてある、1年に2回花を咲かせる子福桜は今が満開である。子福桜はバラ科のサクラ属の外来種との混合種だそうだが、春と晩秋から冬にかけてのこの季節に白い可憐な花を咲かせる。
「小春日和」は北米でも同じ陽気があり”インディアン.サンマー”と呼ぶそうだ。インディアンが間もなくやってくる冬に備えて暫しの休息を楽しむ季節だという。また、比喩的にこの季節を人生の晩年にたとえ、暫しの安息を楽しむ季節だともいう。僕ら80歳半ばの三人は、大げさに言えば、地平線が眺めラられるような芝生の一角のベンチに座り、”こしかた”と先が見えてきた”ゆくすえ”について話し合った。まさに”インディアン.サンマー”のひと時であった。
砧公園は昭和15年の皇紀二千六百年の祝賀記念として当時の東京府が緑地として造園したものだが、戦争中は食糧増産のため畑になり、戦後も一時期ゴルフ場として使用されてきた。このため一般都民に公園として開放されたのは比較的歴史が新しい。このためか都民にあまり知られていないが、こんな都心に近い場所で自然が楽しめるなんてもったいない穴場である。
東京ドームの恐らく数十倍はある広い公園はまだ紅葉には早かったが、千本近くあるケヤキ林は晩秋のたたずまいを見せ、シラカシの木の下では親子連れがちいさなどんぐり拾いを楽しんでいた。よく手入れされた芝生近くに植えられてある、1年に2回花を咲かせる子福桜は今が満開である。子福桜はバラ科のサクラ属の外来種との混合種だそうだが、春と晩秋から冬にかけてのこの季節に白い可憐な花を咲かせる。
「小春日和」は北米でも同じ陽気があり”インディアン.サンマー”と呼ぶそうだ。インディアンが間もなくやってくる冬に備えて暫しの休息を楽しむ季節だという。また、比喩的にこの季節を人生の晩年にたとえ、暫しの安息を楽しむ季節だともいう。僕ら80歳半ばの三人は、大げさに言えば、地平線が眺めラられるような芝生の一角のベンチに座り、”こしかた”と先が見えてきた”ゆくすえ”について話し合った。まさに”インディアン.サンマー”のひと時であった。
砧公園は昭和15年の皇紀二千六百年の祝賀記念として当時の東京府が緑地として造園したものだが、戦争中は食糧増産のため畑になり、戦後も一時期ゴルフ場として使用されてきた。このため一般都民に公園として開放されたのは比較的歴史が新しい。このためか都民にあまり知られていないが、こんな都心に近い場所で自然が楽しめるなんてもったいない穴場である。
砧公園は、戦前より緑地として管理されたようですが、野川公園の方は、戦時中、中島飛行機の三鷹研究所でした。中島飛行機の田無工場は、昭和19年連日のようにB29の空爆がありましたが、三鷹研究所は敗戦前に艦載機の単発爆弾と機銃掃射があっただけでした。敗戦で米軍に接収され、その後60万坪のうち55万坪が国際基督教大学に、5万坪が富士重工になりましたが、その後、東京都は南側の野川の附近の国際基督教大学のゴルフ場を買収・整備し、昭和55年に野川公園として開園しました。敗戦後、GHQの占領支配により、長らく日本の航空機産業を禁止・規制されましたが、ようやく、三菱重工の国産小型ジェット機MRJの初飛行が11月11日に行われ、感慨もひとしおです。日本の今後の中核戦略産業として発展させ、国内の地方活性化、とくに、正社員雇用と中小部品企業を増やし、国際競争に勝ち抜く、ノウハウ蓄積を積み重ねてもらいたいと思います。
僕が卒業した小学校(五反田)の校歌にも”武蔵野の野辺に”とありましたが、昭和18年卒業時は、武蔵野の面影は全くありませんでした。当時、武蔵野といえば国木田独歩の「武蔵野」であって、実際に中央線沿線には、その面影が残っていましたね。
関東大震災後の帝都復興の波に乗り、武蔵野が喪失してきましたが、まだご紹介の地には武蔵野が残っていますね。
また、今週、70年来のとの誘いで駒沢公園に行きますは、こちらはジョギングとサイクリングで騒々しくせっかくの自然を楽しめませんが。