戦前、蘭印時代に今のインドネシアの地で活躍していた邦人の記録「じゃがたら閑話」によると、昭和13年ー14年、中部ジャワの港町スマランには日本からの雑貨を扱う「Toko Jepanng」(日本の店)が50もあり、そのほか理髪店、洗濯屋、写真店などあり賑わった。当時はスラバヤ、バタビア(今のジャカルタ)に次ぐ繁栄ぶりだった。
戦時中スマランには速成の将校を育てる陸軍予備士官学校が誘致され、南方軍の士官養成に当たった。インドネシアの地に残り独立戦争に参加した人たちの会「福祉友の会」創始者のひとり乙戸昇氏も子の士官学校の卒業だ。
スマランでの日イ関係唯一最大の汚点は敗戦直後の昭和20年10月、インドネシア独立を叫ぶ群衆が日本軍の武器を求めて蜂起、在留邦人を市内のブル女子刑務所に収容、さらには無抵抗の邦人108人を虐殺した。残りの収容者は憲兵隊により救出されたが、これがきっかけで日本軍と群衆との間で市内各地で戦闘となり5日間も続いた。インドネシアでは「イ日5日戦争」と呼んでいるそうだ。
当時、軍政官として事件後検視に当たった戦後在ジャカルタ大使を勤めた斎藤鎮男氏はその著書「 私の軍政記」の中で惨殺された収容者の一人が刑務所の壁にインドネシア語で「インドネシアア独立万歳」と血書してあったと触れておられる。その時代の日本人の気持ちがうかがわれる。事件のあった場所には戦後慰霊碑が建てられ、関係者で慰霊祭が行われている。
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