ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

鳩山さん、子供じゃないの?

2009年06月14日 | 政治
自民党総務大臣の鳩山さんが辞任しました。
テレビでお顔を拝見していると、どうも相撲部屋の親方のような感じがして・・・
言ってることは理解できますが、どうも青い(年上のかたに失礼ですが)のですね。
「正しいことが通らない」と言いますが、青春ドラマじゃあるまいし、総務大臣としてそれだけが仕事ではないはず。
また閣僚として国内国外を問わず、さまざまなことを討議検討しなくてはいけないのではないでしょうか。

兄の鳩山さんは「日本列島は日本人だけのものではない」と友愛精神?を持ち出して危ないことのたまうし、自民の鳩山さんも「友人の友人がアルカイダで」と<友愛精神?>を持ち出す。大騒ぎになったのもそんなに昔ではありませんよ。

西郷隆盛の言葉を持ち出してもみんな笑うだけです。
確かにお顔の輪郭は西郷さんの絵と似たようにも思いますが。
これはこれ、全体の仕事は仕事って考えられないほど単細胞!
たまったものじゃない!

北朝鮮の問題を身近に感じているこのごろ、議員さんは国民のために心を砕き、一致協力して良い方法を考えて下さい。
国民は心配していますよ。
まだまだ多くの問題が山積みです。
名門ならぬ「迷門」にうんざりですよ!
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生きる上での「背骨」

2009年06月14日 | 生活・介護

実は金曜日の明け方、いつものように父はスタンドの明かりをつけ、ごそごそと新聞を見たり、ノートを開いて落書きのような字を書いていました。
いつものことなので、「寝なきゃだめよ」と言って寝かせようとしたのですが「頭が痛い!」と父はベッドへ行くのです。今まで父は2度硬膜化血栓や小脳出血で手術をしており、入院も何度かしています。

私は寝るどころでなく、大きな紙バッグ(軽いので)に急いで入院に必要なものを入れて、洗濯物をサンルームに干し、父の様子を見ていました。痛みは引く様子もなく、さっそく病院に電話、主治医が来られるというのでタクシーを呼び、連れて行きました。
先生は親身になって下さる優しいかたで、すぐに診て下さり、「心配ないと思いますが念のためCTを撮ります」・・・CTのフィルムはすぐ出来て、多くの患者さんが予約でいらっしゃるのに急患の父をこころよく優先して下さって「少しですが出血しているかもしれないところがあります。でも散らせるでしょう」と2週間後にもう一度CTの予約も入れて下さいました。
ロビーで支払を待っていると、また先生が来て下さって「念のためにMRIも今から撮っておきましょう」・・・その結果、脳の血管がきれいなこと、打ったと思われるような出血が少しあるけれど来月もう一度検査をしてみましょう。多分大丈夫と思いますが」、父には「どうですか。痛くないでしょう?」と優しく声をかけて下さったのです。「痛くなくなった」と父は元気に答えます。(父は今日も頭が痛くない、言って元気に過ごしました)

患者の家族(といっても私だけですが)に優しいことばと行き届いた処置と説明がどれほどありがたいか、頭が下がります。

こんな時なのに父は少しばかりでも待つのが嫌いで「おーい、順番はいつか?」と怒鳴るのです。先生は「次でーす!」

元気なものでトイレに行きたいと言い連れて行きましたが、車椅子用のトイレは汚れていて、まず私はそれを清掃、液体石鹸をペーパーに濡らしてきて消毒、次は水拭き、の繰り返しで何とかきれいにし、大変でした。
「もう出る~!」とわめく父に無事トイレをすませ、帰宅したのは昼の2時前で、それからシャワーで洗い、新しい下着に着替えさせ、そこへヘルパーさんが来られました。家は雨戸が全部閉まっているし、どうしたんだろう、って。

それから簡単な食事を用意し、ヘルパーさんに見てもらっている間、掃除をしました。床の上に大きな紙バッグにタオルやパジャマが詰め込まれており、「入院を覚悟していました」と不要になった心配を語り、買い物に行きました。

大切な父、「出て行け!殺したる!」とぶっそうなことを言ってわめきちらす・・・ボクシングのように叩いてくる、蹴りにくる、でも「元気だから」ってほっとしている私。

いざという時、私は強い、阪神大震災の時もそうだったし、今は亡き母の面倒も看てきた・・・私にしてみたらこれ以上はできなかったけれど、娘として母に「至らぬ娘」とわびる気持ちでいっぱい、母が亡くなってから仕事に没頭して忘れようとしたけれど、思い出の一コマ一コマが胸に迫り、それを押しやって生きてきたのも
音楽という「背骨」があったからかも知れません。

母は私が20歳のころから入院。母の闘病生活は大変なものでした。
毎週洗濯物を往復2時間以上かけて届け、看護婦さんに気をつかい、精神的に「これ以上は無理!」と思って夜やっと帰ると、父が「はやくメシの支度をしろ!」と不機嫌、父はバリバリの商社マンでした。でも母の心労もあったのでしょう。
睡眠薬を飲まないと眠れなくなっていたのです。父はそれでも早朝登山とラジオ体操5千回をやりとげた「不屈の精神」、そして私は「レイテ激戦の勇士の娘」として震災後のやくざのケンカも止めにはいったり、宝くじ売りの人が殴られているのをとめて警察をよんだり、と怖いもの知らず、友人のフーレンさまが心配して説得なさり、それから無鉄砲なことはしなくなりました。(恥ずかしい)

私には歌がありました。音楽をしている時は別世界があったのです。
そして、「三国演義」・・・ここで深い歴史の世界を知りました。楽しくも時間を忘れる世界でした。
私はうつにはならない、いつも快活で親のために尽くすのが、「強い者」としての矜持でした。

子供の時、強いと思った母に反抗したこともあります。母はちっとも怒らず「あなたが好きだから」と言ってくれました。
たったこの一言のために母に尽くす決意をしたようなものです。
子として愛されている、だから親にいくら尽くしても足りないんだって。



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