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ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

与謝野晶子とヴェルディ「ドン・カルロ」のエリザベッタ論

2011年01月18日 | オペラ
Act I: Don Carlo 1986 (Don Carlo/Elisabetta Duet)
・・・長いので、7分ぐらいからご覧下さい。ドン・カルロはホセ・カレーラス、エリザベッタはイッツオ・ダミーコ、指揮はカラヤン。

P@RAGAZZO様のブログ「Pの視点」で、与謝野馨と与謝野晶子のことのコメントを書いたが、情けないことに、「与謝野晶子」などまともに読んだことなかったのに、音楽論を例にとって書いてしまい、読み直してメチャクチャな文になっていたので削除をお願いした。

与謝野晶子の本は一冊も読んでいないに関わらず、その鋭い表現を、奔放なマリア・カラスやピアノのアルゲリッチなどを例にとって、個性の強さに強く惹かれることもあったが、いつまでもそれを良しとしない私の音楽観を述べ、もう目も当てられないひどい文になってしまったのだ。

私が言いたかったのは、女流で個性の強い演奏家である3人は、その演奏が「一人称単数」であることだ。自己中心主義といえばいいかもしれない。

一方、「巨匠」である演奏家は、<天上的ピアニッシモ>の美しさや人を包み込むような余裕があるものだ、ということを述べたかったのだけど。

「与謝野晶子」の他の作品といえば何か?そうだ、「みだれ髪」というのがあったな、検索してみようとして読んだら、もうびっくり仰天!

これは美しい日本語で書かれているけれど・・・目が点だった。
私は与謝野晶子を知らないのに、勝手に音楽とこじつけて書いてしまった、ここは潔く引き下がるしかないだろう、そう思って削除を願ったのである。

確かに与謝野晶子は美しい日本語で書いている、しかしその内容は私の美的感覚とは相いれない。

その孫があれか!なるほど・・・自分中心だ!

私の美的感覚は、ヴェルディのヒロインである。
例えば、「ドン・カルロ」のエリザベッタ、彼女はフランス王女(悪名高いカトリーヌ・ド・メディシスの娘)で、スペイン皇帝、フィリッポ2世のお妃である。
しかし、かつては皇子ドン・カルロのフィアンセであったが、フランスとスペインの同盟のため、フィリッポ2世との政略結婚となった。

一方、皇子ドン・カルロは今は継母となり「マードレ(母上)」と呼ばねばならないエリザベッタを忘れることができず、ノイローゼになり、継母に苦しい愛を打ち明けるが、エリザベッタは「父を殺して血でぬれた手でこの母を祭壇に導くがよい!」と言い渡す。絶望して走り去る皇子を見送りながら「おお、主よ、お守り下さった」と苦しい祈りを捧げるのだ。
(彼女はまだドン・カルロへの想いを絶ち切れないでいた、その苦悩が痛々しい。)

この名場面、潔いエリザベッタがカルロ皇子を退けることによって、彼を護ることができたのだ。
これで皇子カルロは、友人ロドリーゴと共にスペインのフランドル侵略を止め、平和を希求する方向に転換する。
また、それはエリザベッタにとって、ロワール河畔で新教徒虐殺した母カトリーヌ・ド・メディシスの罪を償ないたいと、心を痛めていたことであった。ロドリーゴが暗殺された後、彼女は皇子に「フランドルに行って人々を救い、友人のロドリーゴの遺志を継ぎなさい」と言う。

だから与謝野晶子の作品を読んで「一人称単数」と思ったのだ。
美しいけれどそこには自分勝手がある。それも芸術だといえばそうだけれど、ヴェルディの「ドン・カルロ」の王妃エリザベッタの永遠の美しさにはかなわないのだ。

動画は7分あたりからご覧下さい。
コメント (8)
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