ポーランド共和国国歌「ドンブロフスキのマズルカ(Mazurek D醇Gbrowskiego)」
ショパンの国、ポーランドの国歌です。
マズルカはポーランドの庶民の舞曲、日本で言うと盆踊りか・・・なんて言うと叱られそう・・・私の音高時代の友人のピアニストがワルシャワ音楽院で学び、私は「蜂蜜ワイン」をお土産に頂いたことを思い出します。
マズルカってショパンの作品では、洗練されていて美しいですが、もともとはこのような素朴な味わいだったのですね。
歌詞を御紹介します。
(原文はポーランド語 日本語訳はWIKIソースより)
1.
ポーランドは、まだ滅亡してはいない
我らが生きているかぎりは
いかなる外国の軍勢が強奪しようとも
我らは剣で奪い返す
進め、進め、ドンブロフスキ
イタリアの地からポーランドへ
我々はあなたの指揮に従う
あなたの下に我ら国民は団結する
2.
ヴィスワ川を越えて、ヴァルタ川を越えて
我々はずっとポーランド人だ
ボナパルトがいい例だ
勝つ方法を見せてくれた
3.
チャルニィエツキがポズナンに行ったように
スウェーデンとの戦いの後
国を救うため
海を渡って戻ってきた
4.
父は娘に語る 涙ながらに
「よく聴きなさい。ポーランドの軍は今、勝利のドラムをたたいてるそうだ」
☆ドンブロフスキはポーランドの歴史において、ナポレオン戦争中のイタリア・ポーランド軍団を編成した人として知られている。
その編成を1796年、ナポレオンによりパリへ召喚された時より始め、そしてチザルピーナ共和国により新設されたロンバルディ共和国の軍隊の一部隊としてポーランド軍団を編成する権限を与えられた。
この軍団が編成された年の三年前、ポーランド分割がロシア、プロイセン、オーストリアの三国の間でなされ、ポーランドがヨーロッパの地図上から姿を消した。
しかしポーランド人部隊の編成はフランスによるポーランド独立運動の支援によって、ポーランド問題を再浮上させるきっかけをもたらした。
これにより、イタリア人がナポレオンのフランス側に立って戦争に参加することを拒否したこの時期に、イタリアでのポーランド軍団の編成は両者にとって利益のあるものであった。
ショパンの国、ポーランドの国歌です。
マズルカはポーランドの庶民の舞曲、日本で言うと盆踊りか・・・なんて言うと叱られそう・・・私の音高時代の友人のピアニストがワルシャワ音楽院で学び、私は「蜂蜜ワイン」をお土産に頂いたことを思い出します。
マズルカってショパンの作品では、洗練されていて美しいですが、もともとはこのような素朴な味わいだったのですね。
歌詞を御紹介します。
(原文はポーランド語 日本語訳はWIKIソースより)
1.
ポーランドは、まだ滅亡してはいない
我らが生きているかぎりは
いかなる外国の軍勢が強奪しようとも
我らは剣で奪い返す
進め、進め、ドンブロフスキ
イタリアの地からポーランドへ
我々はあなたの指揮に従う
あなたの下に我ら国民は団結する
2.
ヴィスワ川を越えて、ヴァルタ川を越えて
我々はずっとポーランド人だ
ボナパルトがいい例だ
勝つ方法を見せてくれた
3.
チャルニィエツキがポズナンに行ったように
スウェーデンとの戦いの後
国を救うため
海を渡って戻ってきた
4.
父は娘に語る 涙ながらに
「よく聴きなさい。ポーランドの軍は今、勝利のドラムをたたいてるそうだ」
☆ドンブロフスキはポーランドの歴史において、ナポレオン戦争中のイタリア・ポーランド軍団を編成した人として知られている。
その編成を1796年、ナポレオンによりパリへ召喚された時より始め、そしてチザルピーナ共和国により新設されたロンバルディ共和国の軍隊の一部隊としてポーランド軍団を編成する権限を与えられた。
この軍団が編成された年の三年前、ポーランド分割がロシア、プロイセン、オーストリアの三国の間でなされ、ポーランドがヨーロッパの地図上から姿を消した。
しかしポーランド人部隊の編成はフランスによるポーランド独立運動の支援によって、ポーランド問題を再浮上させるきっかけをもたらした。
これにより、イタリア人がナポレオンのフランス側に立って戦争に参加することを拒否したこの時期に、イタリアでのポーランド軍団の編成は両者にとって利益のあるものであった。