歴史感と文学を音楽と結んだ鋭敏な解釈で評論された奥山篤信氏のエッセイ!!
わが畏友、作家で評論家の奥山篤信氏が渡欧されていた。そこでミュンヘンでご覧になったヴェルディ「オテロ」についてお書きになったエッセイをご了承を得たので、そのままUPします。
情欲に絡んだ人間の卑劣さ薄汚さ、嫉妬心という人間の内面の動物的悪魔性、この淫らな人間の弱さを描いた永遠の人間の本来悪を、あのキリスト教の偽善に満ちたしかも獣性という矛盾の賛歌すら描いて恥じない旧約聖書などとは異なる正義感がギリシャ神話と同様シェックスピアにはあるのだ。
吐き気を催すあの旧約聖書のエピソードの数々 そして偽善と欺瞞から<ボクちゃんはこんなに人間愛に満ちているのよ>などと胸糞悪い新約聖書などに人間の生き方など学んでも全く意味もないスローガン的な支配者の正当性を宗教を利用して描いているまさに悪魔の本といえるだろう。
そんな人間の弱さをついて故意に嘘を捏造し嗾す悪魔、それに対するまさかのそんなことがあるまいと思うその瞬間に確信や信頼は脆くも崩れ去る弱さがあるのだ。
愛など存在しても、人間という虚しい存在を考えると悪徳や損得が働く卑しい単なる愛欲に過ぎないのだ。そんな愛欲など賞賛に値しない。イヤーゴはそれがわかっているから計略に長けて虚しい愛の破壊を実現させるのだ。
ヴェルディがかかる反道徳を社会的立場から称賛はできないが、彼の持つ偽善と欺瞞を憎しみのレベルまで憎悪するる心をカトリックに向けていることは間違いない。まさに救い難い愛の偽善を信じて疑わないカトリックの偽善 そんな世界などあり得ない。むしろイヤーゴの計略に陥り潔く殺されるデスデモーナそして、間違ってあやめたと絶望で自殺する二人の死の世界での永久の愛を得るその美しさは死後にしか固定化しないのだ。
ブログ主・・・奥山篤信氏の鋭い視線はシェイクスピアとヴェルディという二人の芸術家、そして「中韓の声楽家に対し日本の声楽家はどうあるべきか?」と新たな視線でお書きです。西欧では中韓のオペラ歌手の力量は「熱狂的」である。
また現在は西欧で中国・韓国の歌手の声を絶賛されていた。
日本人演奏家はそんな「熱狂」はない、どこか醒めているのだ。
私はこの問題について、中韓のオペラ歌手の「それぞれの祖国の言葉からくるイタリア語の発音の欠陥」に気付いていたが、それから何十年も過ぎて、もはや彼らは発音の欠陥を忘れさせるほどの「豊かな美声」が西欧のオペラハウスで歓迎されることになった。
体力的に日本人が劣るということではない。それは精神的なものであることを奥山篤信氏は鋭く指摘!!
小柄な体格にも関わらず恐れを知らない強烈な国民性の爆発だ。日本は韓国人や中国人のような熱狂的演奏は全ての音楽において無理だろう。<恥の文化>など除外視する文化は日本にはない、そしてその知的な恥じらいの文化こそ日本の文化なるものに欧州の洗練さに対等に立つべく技術面での優位を大いに謳歌してほしいものだ!知的さこそが地道な実力への苦難の道だ。何も熱狂的演奏など僕は日本に要求しない。(奥山篤信氏)
★ 奥山篤信氏プロフィール(紀伊国屋より転載)
奥山篤信[オクヤマアツノブ]
1948年神戸生まれ。1970年京都大学工学部建築学科卒、1972年東京大学経済学部卒。1972~2000年まで米国三菱商事ニューヨーク本社6年を含み三菱商事に勤務。2014年上智大学大学院神学系研究科修了(神学修士号)、2014年秋より一学期(約1年)パリ・カトリック大学(ISTA)に留学。退職後平河総合戦略研究所代表理事、平河サロン主宰、映画評論家として活躍
ブログ主・・・ここまで喝破した演奏論は今までなかった。
今までの音楽評論家は狭い演奏論の中で基本的な技術論や正確な発音と正確無比な読譜力など、「日本人の優秀さ」を伝え語る音楽評論家の多かったこと。日本人演奏家の緻密で正確な演奏はコンクールでも上位を与えられてきた。
しかし「奥山論」は音楽の基本論や演奏のテクニックなどを全く超えた大きな解釈だ。
根本からの「違い」を掘り起こして、同じ東洋人でありながら熱狂的な力量で聴衆を圧倒する中韓の歌手、そして日本人演奏家は西欧人とはまた違った「アジアの大陸人である中韓の演奏家の熱狂」について、大きく認め、その中で日本人には到底表現できないほどの根本的な差異を明らかにされたのだ。そして日本人演奏家ならではの特色を踏まえ、これから世界にどう出ていくのか、欧州の洗練に対し、日本人としての知的表現を重視されている。
もっと声の美しく澄んだソプラノは多く存在するにかかわらず、マリア・カラスはその独特の声で恐ろしいほどの劇的表現力で歌った。オーケストラは彼女の声によってその表現の深みを展開する、という他では考えられないドラマを担ったのだ。
マリア・カラスはヴェルディ声といわれる豊麗な声ではない。しかし演劇的な自然な深みとそれが醸し出す直感のただならぬドラマを音符の前後にまでドキッとさせる緊張感とドラマの予感をもたらすのだ。
注目すべきはこのデスデモナの歌う「アヴェ・マリア」は宗教曲としてのラテン語でなく、イタリア語で書かれている。
「宗教曲ではない、人間ドラマだ」というヴェルディの主張が見え隠れする。(ブログ主)
ではマリア・カラスが歌うヴェルディ「オテロ」から2つの場面をご紹介します。
ブログのティールーム
マリア・カラスが歌うヴェルディ「オテロ」~柳の歌
自分は夫のオテロによって殺されるという予感・・・それは無実の罪なのだが、すすんで無実を訴えるというよりは、運命的な何かをもはやどうすることもできない、と直感しているのだ。
オーケストラは少しづつ同じフレーズを下降し、歌声も低い音域で効果を増す。唯一最後だけがソプラノの高音でそれは別れの叫びである。
Otello, Act 4: Canzone del salice. "Piangea cantando" (Desdemona)
前の「柳の歌」に切れ目なく続いて歌われる「アヴェ・マリア」
"Ave Maria" Otello, G. Verdi - Maria Callas (Most angelic and expressive Desdemona!)
序章の語りのところも本来はラテン語で歌われるはずなのだが、ヴェルディはこの「アヴェ・マリア」全体をあえてイタリア語を選んだ。これは宗教曲ではなく、オペラのドラマとしての一環だ、という主張が感じられる。これも中低音が多く、語りの手法(レチタティーヴォ)で書かれている。