11月27日のN響アワーで、オフィクレイドの実演があった。ベルリオーズやメンデルスゾーンのスコアでは昔からおなじみの金管楽器なのだが、音を聞いたのは生まれて初めて。
低音楽器なのだが、サクソフォーンのようなキーがついていて、管に空いた穴を開け閉めして音高を変える。響いている管の部分が短いからなのか、かなり生々しい印象を持った。
もっともこれは、どうしてもテューバと比較してしまうせいかもしれない。オフィクレイドは百年以上前にすたれてしまったために、現代ではテューバで代用するのが普通だ。テューバは胴体そのものが大きいから、朗々と鳴り響く。
オフィクレイド用のパートを、そのように朗々と鳴り響かせてしまったら、かなり違和感があるのではないか?
と、思わなくもないが、感覚というものは常に「慣れ」で何とでもなるところがある。今、オフィクレイドを復元して、ベルリオーズやメンデルスゾーンを演奏しても、貧弱に感じるだけかもしれない。
ここで思い出すのが、バロック・トランペット。本来、自然倍音だけの高音域を使用するのだが、不安定この上ない。現在ではピッコロ・トランペットで代用することもあるけれど、これは「安定」するだけで、演奏上の難しさは変わらないのだそうだ。
昔は、ヘンデルのメサイアや、バッハのカンタータで、はずしまくったトランペッターをよく耳にした。他の楽器奏者の苦労を水の泡にしてくれたものだ。そこで、こんなことを言った人がいる。
トランペット・パートはソプラノ・サクソフォーンで代用すると良い。
TPO次第では、空気が凍りつきそうだが、これを言ったのは20世紀の名チェリスト、パブロ・カザルスである。となると、これはスゴいアイディアだ、となるかもしれない。
試したことがないから、効果がどのようなものなのかはわからないが、一考の余地はありそうだ。少なくとも、トランペットがみつからなければサックスがあるさ、と考えると、気が楽になる部分はある。
そうやって考えると、いろいろ思いつく。バッハを演奏する時、オーボエ・ダモーレで頭を悩ませる。これは所有者が極端に少ない。東京中に多分10本ちょっと、という程度。何せ、一本200万くらいするのだが、出番がないから、一般的にオーボエ奏者は持っていないのだ。必要な時は、数少ない所有者から借りだすのである。
オーボエ・ダモーレが手に入らないから、マタイ受難曲は演奏できない、というのは少々馬鹿げている。それがなければ、例えばクラリネットで演奏してはどうだろうか。バロック時代は、ある楽器が調達できなければ、別の楽器で代用させることを日常的にやっていた。今でもチェンバロ・パートをピアノで弾くことは珍しくない。半世紀前はコルトーがピアノでブランデンブルク協奏曲を弾いていたものだ。
クラリネットでマタイ、やってみたいな、と思うが、なかなか実現には至らない。早い話が、オーボエ・ダモーレが手に入らないから演奏できないのではなく、これを歌える合唱団がいないから演奏できない、という、もっとオオモトの問題にぶちあたる訳だ。残念!
楽器の問題は、所詮この程度で、大したことではないのかもしれない。