先日、モーツァルトらしくないクラリネット協奏曲を聞かされた。何故「らしくない」かというと、一つには表情の変化に乏しかったからである。この「変化」の仕方が、モーツァルトは特に難しいかもしれない。
モーツァルトのフレーズは、押しなべて短めだ。次から次に違う表情を要求されることがしばしばである。この傾向は協奏曲や室内楽において著しく、交響曲や宗教曲等の声楽作品では、それほどでもないような気がする。
交響曲では比較的ロジカルな展開が多いのに対し、協奏曲では意表をつきまくる展開で「ちょっとおかしいんじゃないか?」と思わせるくらい…。 もっとも、これは筆者の主観なので、別の感じ方もあるとは思うが。
少なくとも協奏曲においては、短い単位で表情を切り換えなければならない。しかも一瞬で鮮やかに。色に例えると、ぎりぎりまで「赤い」表情で、ある瞬間「青」に切り換える。しかし、また次の瞬間「赤」に戻したり、あるいは「黄色」にしたりしなければならない。途中に「紫」や「緑」の「にじみ」が出てしまうと、モーツァルトらしくなくなる。
しかも「赤」の演奏をしながら「青」のイメージを溜めこんで、切り換え箇所で瞬時に「青」を放出することを要求される。 これをするには、(人にもよるが)かなりの訓練が必要で、ここにもモーツァルトの難しさがある。
ただ、これは魅力の裏返しだ。これができるようになった時、神に愛される(AMADEUS)存在と一体になれる祝福が用意されている。
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