その後の『ロンドン テムズ川便り』

ことの起こりはロンドン滞在記。帰国後の今は音楽、美術、本、旅行などについての個人的覚書。Since 2008

W.シェイクスピア/訳:安西徹雄『ハムレットQ1』(光文社古典新訳文庫、2010)

2024-05-16 07:30:14 | 

シェイクスピア劇にはQ版(四折本、クオート)、F版(二折本、フォリオ)があるのは知っていた。ただ、ブルックナーなどのクラシック音楽の交響曲の「版」同様、ゆるゆる読者・鑑賞者の私には違いを意識することなく、いつも漫然と接してきた。今回、人気女優の吉田羊さんが題名役を演じる『ハムレットQ1』を観劇するにあたり、事前に『Q1』を読んでみたら、その違いに驚いた。

本書には冒頭に訳者の解説で版について説明されている。『ハムレット』には二種類の四折本(Q1/Q2)とF1の三種類があってそれぞれが大きく違っている。Q1はQ2やF1に比べて極端に短い上に、現代の多くの翻訳はQ2とF1の混成版になっているという。Q1が海賊版、Q2は作者の生原稿、F1はシェイクスピア自身の劇団による上演原稿との推測が主流らしい。一方で、訳者は、Q1は当時の実際の上演を反映した本文であることや、「ハムレット」の変遷における初期の段階を示しているものとして評価している。

私自身、『ハムレット』は小田島雄志訳と松岡和子訳を持っているが、それらとこの「Q1」の厚さの違いに驚かされる。そして、確かに、Q1は薄いだけあって物語はサクサク進み、スピーディだ。物語の緊張感が途切れることなく、一気に読み切らせる力を持っている。数か月前に太宰治の「新ハムレット」を読んだ感覚に似ていた。

英文科の学生ではないので、具体的にどこが違うのかは比較していないが、長さ以外の印象としての違いは、ハムレットの悩める青年ぶりのシーンが少ないとは感じたが、だからと言って物語全体に大きな影響を与えているとは思えない。どこにこのページ数の違いがあるのか、ぱっと読みだけでは分からないほどだ。ちなみに、本書で解説を寄稿している河合祥一郎先生は、話の構成や王妃ガートルードの人物造形の違いを指摘されていた。

深みに入れば底なしのようなシェイクスピアの世界。とりあえず、私は井戸端から底を覗くぐらいにしておこう。

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宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984)

2024-05-06 09:41:54 | 

日本史関連の本を読んでいると、いろいろなところで参照される民俗学者宮本常一さんの代表作を読んでみた。

いや~面白い。日本の民俗誌として、裏日本史として、「物語」として・・・。

改めて、表の「歴史」と言うのは文字になって、「権力」を持った人によって、記録されて、残されて、伝えられるということがよくわかる。でも、本書にあるような残されない歴史の方が、大多数であり、その時々の実情だということに気づかされる。

近代における日本の都市化されていない地域での日本人の生活、風俗、性への向き合い方などなど、逞しさや奔放さ(いい加減さ)、真面目さなどなど人間や社会の多様性、複雑性を本を通じて疑似体験できる。

30代の時にリーダーシップ研修か何かで、内村鑑三の『代表的日本人』(西郷隆盛や上杉鷹山などの伝記サマリー)を読んだが、その対極を行く本だ。研修の目的(きっと、立派な過去の日本人にリーダーシップの在り方を学ぶというようなものだったと思う)にはそぐわないだろうが、日本や日本人についての思考・理解を深めるには、本書の方がずっと深みのある読書ができて、思考が深まる(ただ、本書がリーダーシップ研修に取り上げられるとはありえないだろう)。

表題が示すように、本書に記述された日本人、生活、風習といったものは、どんどん忘れられていくのだろう。そうした無形文化を記録し、伝えて行く仕事の大切さに気付き、生涯を捧げた筆者の偉大さにも感服だ。

 

〈目次〉
対馬にて
村の寄りあい
名倉談義
子供をさがす
女の世間
土佐源氏
土佐寺川夜話
梶田富五郎翁
私の祖父
世間師(一)
世間師(二)
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)
あとがき

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山田悠史『最高の老後「死ぬまで元気」を実現する5つのM 』(講談社、2023)

2024-04-12 07:30:18 | 

老齢の母の生活支援をしながら、そろそろ自分の老後についても真面目に考えねばと思っていた矢先に、図書館の新着図書のコーナーで見つけ思わず手に取った。

健康寿命と言われる72歳(男性)から平均寿命の81歳までの約10年間に何を考えなくてはいけないかを5つの切り口で整理して解説する。この枠組みは2017年にカナダと米国の老年医学会により提唱され、今では老年医学専門医の基本指針とされているとのことだ。

5つのMとは、
Mobility からだ(身体機能)
Mind こころ(認知機能、精神状態)
Medications くすり(ポリファーマシー:患者が数多くの薬を飲んでいる状態)
Multicomplexity よぼう(多様な疾患)
Matters Most to Me いきがい (人生の優先順位)
を指す。

考え方のフレームワークとして分かりやすい上に、1つのMごとに1章を割いて解説される考え方は説得力あり、「最高の老後」を迎えるためのアドバイスも納得感高い。エビデンスを重視し、巷の俗説については相関関係や因果関係まで見ようとする姿勢は米国での医師経験がある筆者ならではだ。本の構成や記述も読みやすい。とってもお勧めできる健康本である。

 

(以下、いくつか勉強になった知見やアドバイスをメモ)

・寿命を規定するもののうち、25%程度が遺伝子情報に左右される。75%は自分次第。(p.25)

・30~50代の経済状況が老後の健康状態に大きく関わる(p.79)

・運動は量よりも継続が第一(強度すぎる運動は寿命に逆効果)。適度な運動と適切な栄養の両輪がかみ合うことが大切(pp.88⁻91)

・認知症の原因疾患は多様。直る認知症もある。(p124ー)

・科学的根拠ある認知症予防法はない。運動の予防効果はよくわかっていない。7時間以上の睡眠は効果ありそう。地中海式ダイエットも期待できそう。(pp. 142⁻160)

・医者は薬の足し算はできるが、引き算が苦手。薬はかかりつけ薬局を持ち、相談。(p.198/p.211)

・サプリメントはほぼ不要。副作用も存在。(→今の、小林製薬の紅麴問題を予見しているかのよう)(p.221)

・コレステロールの薬は将来の自分を守るための投資(p.230)

・予防接種は体の防災訓練のようなもの(p.288)

・病気は突然やってくる。最期を迎える人の約7割が自分で意思決定できない→家族らと医療方針について話しておく、「事前指示書」(事前に自分の医療方針を書面で明示する)を書くなどの準備も必要。(pp.321⁻330)

・医師が重要と思うことと患者が重要と思うことはずれがある。自分にとっての生きがいを大切にする。(p340)

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スコット・ギャロウェイ(著)、 渡会圭子(訳)『GAFA next stage  ガーファ ネクストステージ 四騎士+Xの次なる支配戦略』(東洋経済新報社、2021)

2024-04-03 07:30:30 | 

原題は"Post Corona: From Crisis to Opportunity"。邦題からは前作『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界 』の続編的な位置づけのようであるが、GAFAについての記述は前半だけ。むしろコロナ禍がGAFA+Xなどのテクノロジー業界や米国社会へ与えた影響を考察したエッセイ。全体を通じては、コロナ中・後のビッグテックの動きや米国社会情勢を知るには良いが、目を開かれるような新しい情報や分析は多くはなかったというのが正直なところである。

そんな中で、3点、個人的に興味を引いた点をメモしておく。

1つは、GAFA+Xに代表されるビッグテックのビジネスモデルを「赤」と「青」で2分していること。

「青」は商品を製造コストより高い値段で売るモデル。アップルのiOSに代表される「高品質でブランド力あり高価格だが、裏で(ユーザの)データ利用されることが少ない」。「赤」は商品を無料で配り(あるいは原価以下で売り)他の企業に利用者の行動データを有料で提供するモデル。グーグルのアンドロイドのように、「まずまずの品質で初期費用が安いが、ユーザのデータとプライバシーを広告主に差し出さねばいけない」モデルである。動画サイトで言えば、青はNetflix、赤はYoutubeである。ほとんどのSNSは赤だ。筆者は「青」のモデルに期待を寄せ、X(ツイッター)も青のモデルに移行すべきと主張する。(マスク氏のXの有料化構想は、筆者の主張に沿う)。

2点目は、コロナの影響の見立てだ。GAFA+Xの支配は加速し、「少数のアメリカ企業による支配の始まり」が進んでいる。筆者は、テック企業の支配力の高まりが社会に及ぼす悪影響について警鐘を鳴らす。ビッグテックは「何も悪いことは起きてない」と自分たちの悪影響に対して無視を決め込む一方で、対立と分断をあおっている。様々なメディアで、米国の貧富格差の拡大や中間層の没落(普通に頑張って普通に豊かな生活を送れる時代の終焉)が指摘されるが、本書も指摘もその流れに沿ったものだ。

3つ目は、こうしたビックテックの暴走への歯止め策だ。筆者は、政府の役割を見直し、強力な政府が必要と主張する。教育など公共サービスの充実、独禁法規制の強化などとともに、一般市民は選挙を通じて、「政府を信じ、特定の個人に権力が集中することの脅威を理解し、科学を尊重する人」を選ぶことが主張される。ビジネススクールの教授が、政府の役割強化を主張するのも珍しいのではないかと思うが、そのこと自体が、事態の深刻さを物語っている。

これからの数十年で世界はどう変わっていくのだろう。明るい未来は想像が難しい。そんな感想を持たざるを得ない米国の今がある。

 

目次

イントロダクション
 新型コロナは「時間の流れ」を変えた
 「GAFA+α」はパンデミックでより強大になった
 極小のウィルスが「特大の加速装置」になったわけ
 危機はチャンスをもたらすが、それが平等とはかぎらない
 痛みは「弱者にアウトソーシング」された

第1章 新型コロナとGAFA+X
 強者はもっと強くなり、弱者はもっと弱くなる。あるいは死ぬ
 危機を生き残れた企業がやったこと
 ポスト・コロナで勃興する新ビジネス
 「他人を搾取するビジネス」は危機にも最強
 パンデミックはすべてを「分散化」させる
 「ブランド時代」が終わり、「プロダクト時代」がやってくる
 プロダクト時代を支配する「赤」と「青」のビジネスモデル
 「赤」と「青」に分岐する世界

第2章 四騎士GAFA+X
 加速する「GAFA+X」の支配
 「GAFA+X」の3つの力の根源
 搾取:GAFA+Xだけが持つ最強の装置「フライホール」
 メディアはGAFA+Xの次なる主戦場
 テック企業が大きくなれば問題も大きくなる
 GAFA+Xに対抗する
 GAFAが自らにかけた「成長」という呪い
 最強の騎士アマゾン
 青の騎士アップル
 赤の2大巨頭、グーグルとフェイスブック

第3章 台頭するディスラプターズ
 ディスラプタビリティ・インデックス
 「加熱」の一途をたどるスタートアップ業界
 ユニコーンの誕生
 カリスマ創業者が語る「ヨガバブル」というたわごと
 カネ余りとGAFAがディスラプターに力を与える
 「最強のディスラプター」が持つ8つの特徴
 勃興するディスラプターズ

第4章 大学はディスラプターの餌食
 ディスラプションの機は熟している
 大学に大変革を起こす力
 パンデミックがディスラプションの引き金を引いた
 大学を襲うディスラプションの大波
 大学の改善に向けた提言

第5章 資本主義の暴走に対抗する
 あまりにも無力になった政府
 資本主義の功罪
 資本主義のブレーキを握る政府の役割
 資本主義(社会の階段を登る場合)+社会主義(社会の階段を降りる場合)=縁故主義
 縁故主義と不公平
 アメリカで生まれた「新たなカースト制」
 搾取経済
 政府のことを真剣に考えよ
 政府がパンデミックですべきだったこと
 ディスラプターズとの闘い
 いましなければならないこと

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アガサ・クリスティー (著), 中村 妙子 (翻訳)『春にして君を離れ』ハヤカワ文庫、2004(原作は1949年発表)

2024-03-29 07:26:11 | 

勉強会でお知り合いになった「まなとも(学び友達)」のご推薦図書。

「ミステリーの女王」アガサ・クリスティーのフィクションであるが、犯罪は一切出てこない。「自己変革」をテーマにした心理小説である。「さすがクリスティ!」と唸らせる、どきまきしながら読者にページをめくらせる吸引力は抜群。ハッピーエンドを予感させながらの結末は唸らされ、物語としての読後感は非常にザラザラしたものだ。

イギリス中流家庭の模範的な妻が、中東に住む娘夫婦を訪問後の帰路において、天候事情により、周囲には何もない砂漠の町で足止めを余儀なくされる。3日間の孤独が彼女の人生の振り返りの時間となり、内省が促される。大いに気づきを得、新たな自分の旅立ちの決意を持ったところで、帰国し日常生活に戻っていく。そのプロセスが、主人公の視点、心情をベースに描かれる。

「自己変革は可能なのか?」、「認知の枠組みはどう形成され、修正されうるのか?」、「自分とは何か?」といった問いが読者に突きつけられる。小説ではあるのだが、「心理学」、「自己啓発セミナー」などのケーススタディとしても活用されそうな物語である。

主人公に共感するのか、冷たく突き放すか、はたまたその中間か。読み手そのものの認知バイアスが、本書で試されるだろう。

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太宰治『新ハムレット』(新潮文庫、1974)

2024-03-23 07:40:11 | 

太宰治の作品を読むのは学生時代以来。本作の芝居を見に行くので、予習として原作に目を通した。(本文庫本には本作含め5作品が収録されているが、読んだのは本作だけ)

冒頭に筆者の「はしがき」があって、「『ハムレット』の注釈書でもない、または、新解釈の書でも決してない・・・作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎない・・・。狭い、心理の実験である。」と説明がある。「狭い」かどうかは置いておいて、それ以外はその通り。シェイクスピアの『ハムレット』から登場人物と状況設定は借りつつも、中身は全く異なる、似て非なるものである。

前半は、元『ハムレット』との差分・違いが気になりながら読み進めたが、段々と太宰版の世界に嵌まっていく。登場人物夫々の人としての癖、どこまでが本心でどこが嘘なのか、真の動機は何なのか、そしてこの物語はどう収拾されるのか・・・。物語としての吸引力は元『ハムレット』同等に強いと思わせるぐらいだ。作者が書いた通り「心理の実験」であり、心理劇になっている。

発せられる言葉もシェイクスピアに負けてない。

「忍従か、脱走か、正々堂々の戦闘か、あるいはまた、いつわりの妥協か、欺瞞か、懐柔か、to be, or not to be, どっちがいいのか、僕にはわからん。わからないから、くるしいのだ。」(ハムレット、p.265)

「形而上の山師。心の内だけの冒険家。書斎の中の航海者。つまり、ぼくは取るに足らない夢想家だ。」(ハムレット、p.291)

「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ち続ける。」(ハムレット、p.350)

・・・

否が応でも、太宰のほとばしる才能を感じる作品だ。さて、これが芝居ではどう表現されるのだろうか・・・。

 

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うん十年振りに「プロ倫」を読んでみた:マックス・ウェーバー(訳 中山 元)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日経BP,2010)/原著は1920年

2024-03-20 07:30:41 | 

まさかこの歳になって、「プロ倫」を再読するとは思ってもみなかったが、昨秋から参加していた勉強会の最終回の課題図書であったので、読まざるを得ず。大学2年の一般教養「社会思想」の授業で読まされて以来である。当時読んだ岩波文庫版(梶山力、大塚久雄 訳)よりも読みやすいとの評判を聞き、中山元の訳を読んだ(確かに読みやすかった)。

初読から数十年経っているので、記憶も経験も積み重なっていることもあるが、一体、学生の時は何を読み取っていたのだろうか。恥ずかしいほど、何も残っていなかったことが判明。仮説に対する検証方法や分析の内容など、改めて読んで、気づかされたことが多々あった。

内容について詳細は省くが、ベンジャミン・フランクリンが書き残した、時は金なり/信用は金なり/金が金を生む/よい会計係は他人の財布の落ち主/勤勉と節約/几帳面さと正直といった資本主義を発達させた精神の本質(エートス)は、プロテスタンティズム(特にカルヴァン派)の予定説から導かれる天職の思想や禁欲主義をバックボーンにしていることを検証している。

「世俗的な職業に従事しながらその義務を果たすことが、道徳的な実践活動そのものとして、最高のものと高く評価されたことは新しいこと。これにより世俗的な日常の労働に宗教的な意義があると考えられるようになり、その必然的な結果として、このような意味での天職の観念が始めて繰り出された。・・そして神に喜ばれる唯一の方法は、各人の生活における姿勢から生まれた背欲的な義務を遂行することにあると考える。こうした義務の遂行が、その人の「召命」であるとみなすようになった」(p142⁻143)

「プロテスタンティズムの世俗内的な禁欲は、自分が所有するものをこだわらずに享受することに全力を挙げて反対し、消費を、とくに贅沢な消費を抑圧した。この禁欲はその反面で、財産を獲得することに対する伝統主義的な倫理的な制約を、解き放つ心理的な効果を発揮したのである。利益の追求が、直接に神が望まれるものとみなしたために、利益の追求を禁じていた〈枷〉が破壊されたのである。」(p.462)

2つの点で興味をひかれた。

1つは日本人の資本主義の精神はどこからきているのかという点だ。現代日本において、中近世のプロテスタントのように召命として労働に励む人は殆どいないと思うが、日本人の労働観や勤勉性はどこから来ているのだろうか。金儲け・利益についての考えの由来はどこにあるのか。そんな疑問が頭をよぎった。近江商人の三方良しとか、「もったいない」という考え、石田梅岩の石田心学における「正直」「勤勉」「倹約」といった倫理。これらはプロテスタンティズムの精神にも共通するところがある。日本人らしい、なんでも統合させてしまう特質から「武士道/商人道」「仏教/神道」などなどのミックスによるものなのだろうか。

2つめは、マックス・ウェーバーの先見性。今回、特に、目を開かれたのは、マックス・ウェーバーが、資本主義の将来を鋭く見据えていたということだ。資本主義においてその精神性が薄れ消滅しつつある20世紀初頭の状況を見て、『プロ倫』の最後ではこう述べる(めちゃ長い引用だがとっても大事)。

「現在では、禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の後をついたのは、晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のバラ色の雰囲気すら、現在では薄れてしまったようである。そして、「職業の義務」と言う思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
(中略)「職業の遂行」が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えることができなくなっても、(中略)今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。(中略)営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときには、スポーツの性格を帯びていることも稀では無いのである。
将来、この鋼鉄の檻に住むのは、誰なのかを知る人はいない。そして、この巨大な発展が終わるときには、全く新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいは、そのどちらでもなく、不自然極まりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのであろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が真理となるだろう。『精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無に等しい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。』」(pp493⁻494)

噛みしめたい一文だ。まさに、今の世の中、精神のない専門家、魂のない享楽的な人間に溢れているとは言えないか。そうした中で資本主義の暴走が起こっている。私自身も含めて、「職業の遂行」の意味を考えるべき時代だと強く感じた。

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伊藤亜聖『デジタル化する新興国  先進国を超えるか、監視社会の到来か』(中公新書、2020)

2024-03-16 07:47:42 | 

 「デジタル技術による社会変革は、新興国・途上国の可能性と脆弱性をそれぞれ増幅する」という仮説に基づき、様々な可能性と脆弱性の事例を紹介しながら、途上国・新興国におけるデジタル化の影響を検証・整理する一冊。

構成と文章が明快なので、網羅的かつ構造的に論点について理解しやすく、良い意味で「教科書的」である。

デジタル化による変化には以下のような特徴がある。
1)従来の「先進国」と「新興国」といった紋きり調の定義が変容していく。
2)経済発展戦略における「人材・技能」、「インフラ」、「金融」、「支援制度・政策」といった先進国からの支援パッケージも、工業化のための仕組みとデジタル化のための仕組みでは異なっている、
といったことだ。漠然とは感じてはいたものの、文字に落とされて、改めてその通りだと感じる。

日本もこうしたデジタル化による世界の構造変化の波を大きく受けている。工業化時代においては、新興国への「開発援助と協力」で国際的な役割を果たしてきたが、足元のデジタル化がおぼつかない今の日本では、国際的な役割は不明確だ。筆者は「共創パートナーとしての日本」(p.223)を構想として打ち出している。

「好奇心と問題意識のアンテナを広げ、日本の技術や取り組みを活かす。同時に新興国に大いに学び、日本国内に還流させる。加えてデジタル化をめぐるルールつくりには積極的に参画し、時に新興国のデジタル化の在り方に苦言を呈する。(中略)より対等な目線で、共により望ましいデジタル社会を創る、という姿勢だ。」(pp.223⁻224)

これだけでは如何にも学者さんの考察で抽象的すぎるが、具体例として、インドの生体認証PJへの日本企業によるシステム提供やコーポーレート・ヴェンチャー・キャピタル、日本企業の海外拠点によるデジタル化動向の調査、デジタル経済と技術開発をめぐるルールつくりへの参画などが例として挙げられている。明確で絶対の答えは無い問いであり、これから様々な関係者がもがかなくてはいけない分野だが、このデジタル時代における日本の国際的な役割について明確に語れないところに、日本の危うさがちらつき、昨今の株高も素直に喜べないところだ。

先だって読了した『幸福な監視国家・中国』のような現場視点でのレポート情報は無いので、迫力には欠けるが、新興国のデジタル化について概観を掴みたい人にお勧めできる1冊だ。

 

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シーラ・フレンケル, セシリア・カン (著), 長尾莉紗, 北川蒼 (翻訳)『フェイスブックの失墜』(早川書房、2022)

2024-03-12 07:43:36 | 

フェイスブックには随分、恩恵を受けてきた。20年連絡が取れなくなっていた海外の友人とコンタクトがとれた、普段なかなか会えない友人と近況を手軽に共有できる、知らない情報・行ったことのない場所に触れることができ、世界・知識が広がる・・・。ただ、こうした恩恵のためにどれだけの自分をリスクにさらしているか、危うい情報環境に身をさらしているか。それを教えてくれる1冊だ。

ユーザーの属性・行動情報を売り物にして利益を得る広告モデル、フェイク情報の流通の担い手、メディア企業としての社会的責任を回避する企業体質など、本書にはフェイスブックの影の部分が、関係者の取材を基にディテールに渡って描かれる。読み易いが、読んでいて気が重くなり、一気に読むというわけにはいかなかった。

「テクノロジーは、考え方や経験の似通った人々が構成するエコーチェンバーをあちことに生み出してしまった。ザッカーバーグはこのジレンマを解消できていないかった。フェイスブックは一つの国家ほどの力を手に入れ、抱える人口は世界中のどの国より多い。しかし、実際の国家は法律によって統治され、指導者は国民を守るために消防士や警察などの公共サービスに投資する。しかしザッカーバーグはユーザーを守る責任を取っていなかった。」(p.316)

「フェイスブックの心臓部であるアルゴリズムは強力であり、膨大な利益をもたらす。フェイスブックのビジネスは、人と人とをつなぐことで社会を発展させるという使命と、そうする過程で利益を得るという。両立することが難しい根本的に二律背反の上に成り立っている。」(p368)

フェイスブックに限らず、グーグル、Xなども構造は似たようなものだろう。かといって、こうした巨大テックカンパニー誕生前のマスコミに牛耳られて情報コントロールされた世界の方が良いかと問われれば、それはそれで疑問だ。こうしたプラットフォーム企業のサービスなしには生活すらままならくなってしまった私ら一般個人はどうすべきなのか?どうプライバシーを守り、何を基に物事を判断し、どうサービスを利用すればいいのか、が問われている。もちろんそれは個人個人が考え、行動するしかない。

「企業の社会的責任」、「企業ガバナンス」、「公的規制の在り方」、「表現の自由」、「メディア・リテラシー」等、現代社会における重要テーマのケーススタディとして最適だ。そして、ここまでの取材と記述を行う米国のジャーナリズムは流石と感嘆する。多くの人(特にフェイスブックユーザー)に勧めたい1冊である。

 

目次

どんな犠牲を払っても
大物を挑発するな
次世代の天才
私たちはどんなビジネスをしているのか?
ネズミ捕り係
炭鉱のカナリア
クレイジーな考え
企業は国を超える
フェイスブックを削除せよ
シェアする前に考えよう
戦時のリーダー
有志連合
存亡の危機
大統領との接近
世の中のためになるもの
エピローグ ロングゲーム

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伊藤計劃『ハーモニー〔新版〕』 (ハヤカワ文庫、2014)

2024-02-15 07:30:07 | 

先日読んだ梶谷懐、高口康太の両氏による『幸福な監視国家・中国 』で、ハクスリーの『すばらしい新世界』と並んで、ユートピア的な近未来世界を描いたSF小説として本書が紹介されていたので手に取ってみた。健康、公共心、幸せに満ち溢れた世界にあって、その成員たるオトナになることに反抗を試みた3人の少女と彼らの13年後が描かれる。

テーマ設定のユニークさ、ストーリー展開の巧みさ(サスペンス小説のようでもある)、登場人物の個性、それぞれが引き立っていて、一気に読ませる。テクノロジーが進んだ未来世界、すべてが調和して快適で便利な世界において、社会、人間はどうなるかを考える良いテキストにもなる。

人間における脳の機能と意識の問題も重要なテーマとして扱われる。偶然だが、これは先月読んだ櫻井武さんの『「こころ」はいかにして生まれるのか』で解説されたことが、そのまま小説の世界で応用されていた。驚くと同時に、旬なテーマなのだなと気付かされる。

「意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化した方がいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がそのばしのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる」(p.243)

伊藤計劃氏の名前は聞いたことがあったが、作品を読むのは初めてだった。2009年に34歳で早逝されたという。他の作品も読んでみたい。

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梶谷 懐、高口 康太『幸福な監視国家・中国 』(NHK出版新書、2019)

2024-02-08 07:42:29 | 

タイトルを見て、中国の監視国家ぶりをレポートする本かと思いきや、内容は想像よりずっと深く、議論の射程も広かった。

筆者は、中国の事例を紹介しつつ、「人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点で、現代中国で生じている現象と先進国とで生じている現象の間に本質的な違いはない」(p28)との立場を取る。全世界で急速に進みつつある新しいタイプの「監視社会化」の流れの中に現代中国で起こっている現象を位置づける。

私自身、中国の先進IT国化を共産党独裁の下での特殊なテクノロジー社会の発展と捉えていたので、そのステレオタイプ的な見方が大きく修正され、気づきの多い一冊だった。

事象を見る一つの切り口は「道具的合意性」(あらかじめ決められた目的を達成しようとする場合に発揮される合理性)の暴走という視点である(例えば「治安体制の強化」という目的で新疆ウイグル地区で行われている監視体制)。

長くなるが、部分的に引用する。

「道具的合理性の暴走は私たちの社会とも無関係ではない。第一に、より便利に快適に過ごしたいという人々の欲望を吸い上げる形で、人々が好みや属性に従ってセグメント化・階層化されること、階層の固定化も社会の安定化のために仕方がないという現状追認的なイデオロギーで正当化することは、功利主義を主要価値として内在化させている社会、資本主義社会であれば、どこでも起こりうる。

第2にテクノロジーの進展は、私たちの社会でも一般の市民がその仕組みを理解することを困難にしている。市民の側が巨大民間企業や政府による管理・監視の動きを、適切に監視するハードルが上がっている。

第3に、監視技術を含むテクノロジーを社会の統治にどう役立て、どのように公共性を実現していけばよいのかという問題は、すぐに答えが出るような問題ではない。(pp..239-239)

「私達はどうすればよいのか。月並みだが、重要なのは、テクノロジーの導入による社会の変化の方向性が望ましいことなのかどうかを、絶えず問い続ける姿勢をいかに維持するかということにつきる。」(p.239)

私自身、道具的合理性に捉われて、テクノロジーを利用することで監視・管理を受け入れている部分が多分にあることに気づかされる。「どうすればよいのか」は筆者が認める通り月並みなのであるが、これを超える解決があるのだろうか。「利便性や安全性の向上」をスルーできるだろうか。

また、未来小説の読み方も大いに首肯する部分だった。テクノロジーの普及に伴う管理・監視によるディストピアは、オーウエルの『1984』が何かと代表的な著作として参照されるが、筆者はむしろ技術で人間が社会規範を逸脱した欲望を抱かないように「条件づけ」されて、人々が享楽的に欲望のままに振舞えるハクスリーの『すばらしい新世界』が描くユートピア的世界の方が、我々の未来像に近いと主張する。確かにその通りで、幸せ、便利、安全に飼いならされた人間や人間社会の行く末はどうなるのか。考えごたえのあるテーマだ。

学者である梶谷氏、ジャーナリストの高口氏の共著であるため、理論と現場のバランスが取れている。梶谷氏の議論は、「市民社会」「功利主義」、儒教などの「中国思想」に触れながら、内外の研究者や文学者の研究・作品を引用して展開するので、奥行きが深いともに、正確に理解するには結構な精読が必要だ。軽い気持ちで手に取った一冊だったが、新書の見かけによらず、かなり骨が折れる一冊である。

 

目次

第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
    間違いだらけの報道/専門家すら理解できていない
    「分散処理」と「集中処理」/テクノロジーへの信頼と「多幸感」
    未来像と現実のギャップがもたらす「認知的不協和」
    幸福を求め、監視を受け入れる人々
    中国の「監視社会化」をどう捉えるべきか

第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
    「新・四大発明」とは何か/アリババはなぜアマゾンに勝てたのか
    中国型「EC」の特徴/ライブコマース、共同購入、社区EC
    スーパーアプリの破壊力/ギグエコノミーをめぐる賛否両論
    中国のギグエコノミー/「働き方」までも支配する巨大IT企業
    プライバシーと利便性/なぜ喜んでデータを差し出すのか

第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
    急進する行政の電子化/質・量ともに進化する監視カメラ
    統治テクノロジーの輝かしい成果/監視カメラと香港デモ
    「社会信用システム」とは何か/取り組みが早かった「金融」分野
    「金融」分野に関する政府の思惑/トークンエコノミーと信用スコア
    「失信被執行人リスト」に載るとどうなるか
    「ハエの数は2匹を超えてはならない」
    「厳しい処罰」ではなく「緩やかな処罰」/紙の上だけのディストピアか
    道徳的信用スコアの実態/現時点ではメリットゼロ
    統治テクノロジーと監視社会をめぐる議論
    アーキテクチャによる行動の制限/「ナッジ」に導かれる市民たち
    幸福と自由のトレードオフ/中国の現状とその背景

第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
    中国の「検閲」とはどのようなものか/「ネット掲示板」から「微博」へ
    宜黄事件、烏坎事件から見た独裁政権の逆説
    習近平が放った「3本の矢」/検閲の存在を気づかせない「不可視化」
    摘発された側が摘発する側に/ネット世論監視システムとは

第5章 現代中国における「公」と「私」
    「監視社会化」する中国と市民社会/第三領域としての「市民社会」
    現代中国の「市民社会」に関する議論/投げかけられた未解決の問題
    「アジア」社会と市民社会論/「アジア社会」特有の問題
    「公論としての法」と「ルールとしての法」/公権力と社会の関係性
    2つの「民主」概念/「生民」による生存権の要求
    「監視社会」における「公」と「私」

第6章 幸福な監視国家のゆくえ
    功利主義と監視社会/心の二重過程理論と道徳的ジレンマ
    人類の進化と倫理観/人工知能に道徳的判断ができるか
    道具的合理性とメタ合理性/アルゴリズムにもとづく「もう1つの公共性」
    「アルゴリズム的公共性」とGDPR
    人権保護の観点から検討すべき問題
    儒教的道徳と「社会信用システム」/「徳」による社会秩序の形成
    可視化される「人民の意思」/テクノロジーの進歩と近代的価値観の揺らぎ
    中国化する世界?

第7章 道具的合理性が暴走するとき
    新疆ウイグル自治区と再教育キャンプ/問題の背景
    脅かされる民族のアイデンティティ/低賃金での単純労働
    パターナリズムと監視体制/道具的合理性の暴走
    テクノロジーによる独裁は続くのか
    士大夫たちのハイパー・パノプティコン
    日本でも起きうる可能性/意味を与えるのは人間であり社会
    
    おわりに

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篠田 謙一『人類の起源 -古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』 (中公新書, 2022)

2024-02-01 07:31:54 | 

ゲノム解析で人類の歩みを明らかにする一冊。先に読んだ『交雑する人類』がなかなか難解だったこともあり、同じテーマの本書を手に取った。

諸説は残るものの6万年前以降に「出アフリカ」を果たしたホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人との交雑を経て、中東からインド、東南アジア、中国に進出し、日本にも到達する。またユーラシア大陸を東に進んだ集団は、約2年前にベーリング陸橋を超えて新大陸に進出。そして、南北アメリカへも進んでいく。DNA分析をもとに、壮大な人類の物語が描かれる。

新書という形式や、翻訳ものでは無くて日本人の学者さんの著述ということもあってか、内容は被る所も多々あるが、『交雑する人類』よりもずっと整理された形で分かりやすい。入門としては本書の方が適しているだろう。

『交雑する人類』では記載が少なかった日本列島集団の起源についても1章を割いて解説されるのも嬉しい。縄文人は旧石器時代にさまざまな地域から入って来た集団によって形成されていて、列島に均一の集団が居住していたわけではないこと。「本土の現代日本人に関しては渡来した人々の影響が非常に大きく、ルーツを考えるのであれば、主に朝鮮半島に起源をもつ集団が渡来することによって、日本列島の在地の集団を飲み込んで成立した、と考えるほうが事実を正確に表している」(p.212)ということだ。

最終章は古代ゲノム研究の意義について筆者の持論が展開される。歴史の教科書では、アフリカでの人類の誕生の後に4大文明が語られ、そこに至るまでの人類の道のりについては記載がないことが指摘しこう述べる。

『こうした教科書的記述に欠けているのは、「世界中に展開したホモ・サピエンスは、遺伝的にはほとんど同一といっていいほどの均一な集団である」という視点や、「すべての文化は同じ起源から生まれたのであり、文明の姿の違いは、環境の違いや歴史的な経緯、そして人びとの選択の結果である」という認識である。』(p.267)

アプローチは全く異なるが、昨年読んだジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』 の主張と強く符合する。

分かりやすい記述の新書ではあるものの情報量はとっても多い。何度も読み返してみたい一冊だった。

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デイヴィッド・ライク著、日向 やよい訳『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(NHK出版、2018)

2024-01-25 07:30:45 | 

ゲノム解析によって人類が歩んできた10万年の道程を明らかにされる。読み通すのも、内容を理解するのもかなり努力が求められたが、その価値がある一冊だった。

本書の結論部分を引用すると、

「ゲノム革命は、だれも想定しなかったほど、ヒトの集団がお互いにつながりあっていることを明らかにしている。・・・多様な集団の大規模な混じり合いと、広範囲の集団置換と拡散に満ちた驚きの物語だ。」(p58)

本書はその「驚きの物語」を筆者ら遺伝学者たちの研究成果をもとに人類の歩みを紹介する。アフリカ発のホモ・サピエンスは、欧州のネアンデルタール人とも交雑したし、デニソワ人とも交雑し、地球上に散っていった。人類はこの交雑と拡散のプロセスを経て、現在に至っている。人類の歴史の壮大な時間・空間のスケールに圧倒させられるとともに、ゲノム解析でここまでのことが分かるということに衝撃を隠せない。

最終章ではゲノム革命との向かい合い方について、筆者の持論を展開される。ゲノム革命が進めば、行動や認知上の特性が遺伝的多用性の影響を受け、そうした特性に集団間で平均して差があり、しかも集団内での変動幅についても差があるという結論に行きつく可能性が高い。その際、人間はその差とどう向き合うべきなのかというテーマだ。筆者は言う。

「差異があっても私たちは自身の振る舞いはそれに左右されるべきでないと悟ること。(中略)人間に存在する差に関係なく、誰にでも同じ権利を与えなくてはならない。」(pp..271‐272)

「人間の特性の多様性を心に留めておくことも忘れてはならない。(中略)成功するためのあらゆるチャンスを与えることだろう。(中略)生物学的な差異の存在を認めつつも、あらゆる人に同じ自由と機会を与えるようにすべきだ。」(pp..272‐273)

生物学や遺伝学的な発見・事実とそれに対して人類がどう向き合うべきか、理念・価値観を形成することの重要性を示唆している。人間の本質を考えさせられる意義ある一冊となった。

 

目次
第1部 人類の遠い過去の歴史
 第1章 ゲノムが明かすわたしたちの過去
 第2章 ネアンデルタール人との遭遇
 第3章 古代DNAが水門を開く

第2部 祖先のたどった道
 第4章 ゴースト集団
 第5章 現代ヨーロッパの形成
 第6章 インドをつくった衝突
 第7章 アメリカ先住民の祖先を探して
 第8章 ゲノムから見た東アジア人の起源
 第9章 アフリカを人類の歴史に復帰させる

第3部 破壊的なゲノム
 第10章 ゲノムに現れた不平等
 第11章 ゲノムと人種とアイデンティティ
 第12章 古代DNAの将来

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宮川剛『「こころ」は遺伝子でどこまで決まるのか? パーソナルゲノム時代の脳科学』(NHK出版新書、2011)

2024-01-19 07:43:39 | 

ゲノム脳科学をもとに脳にある「こころ」について解明する本。前回読んだ『「こころ」はいかにして生まれるのか』はこころの遺伝子要素までは踏み込んでなかったのに対し、本書はゲノム脳科学の研究成果を引きつつ、そこに切り込んでいる。

ゲノムとは「生き物」が持つ、それぞれの遺伝情報の総体のことであり、そこに個人の「設計図」が30億の暗号(塩基配列)で書かれている。ヒトの体を構成する60兆個と言われる細胞のひとつひとつに、ゲノム情報は埋め込まれているという。

筆者は、姿かたちや体質だけでなく、知能や感情といった「こころ」を生み出す脳の作り方も書き込まれていると考えるのが自然だという。ゲノム解析は種としてのヒトの分析から、個人を対象にして「自分とは何か」という問いに新しい視点を与える状況を紹介してくれる。

表題の答えを、私なりに本書から要約すると、「知能や性格といったこころの性質は「量的形質」であり、「量的形質」のほとんどは、一つの遺伝子だけで決まるものではなく、複数の遺伝子に加え環境や経験が影響して決まってくる。よって、どこまでとは言えないが、(複数の)遺伝子によりある程度は決まってくる」ということになる。

本書にはこころの疾患や性質に影響するスニップ(ヒトの塩基配列において1塩基だけ置き換わっている「一塩基多型」のこと)が紹介されている(p.188)。「失読症・読書のスキル」「うつ病」「生活リズム・睡眠」「記憶」「間違いからの学習」「アルコール依存・同調性」「甘いものの消費、うつ、倫理観、秩序」といった疾患や性質に影響を与える遺伝子が示される。

もちろん遺伝子だけではないというのが筆者の確固たる立場だが、怖い話である。身体特徴や知能だけでなく、こころまでも遺伝子の影響を受けるのだ。今の親ガチャ風潮を裏付けると言えなくもない。本書が書かれたのは2011年だから10年以上前だ。今はもっと進歩しているに違いない(友人が勤務する会社では人間ドックのオプションメニューにゲノム解析でなりやすい病気や自分の祖先のレポートがあるらしい)。

そんなパーソナルゲノムの時代をどう生きて行けばいいのか?筆者は、個人のゲノム情報を究極の個人情報である一方で、親兄弟のものでもあるという視点や優生学につながっていく危険性も指摘する。最後の指摘はその通りと強く首肯した。

「個人のゲノム解析が普及することにより、個人差がゲノムの違いという目に見える形になって表れるようになります。個人差や個性のネガティブ面には前向きで建設的な対策を考えること。それでも変えることができそうもない面についてはあるがままに受け入れる気持ちを持つこと。そして、個人のポジティブな面を最大限に尊重して伸ばしていくということ。そういった姿勢が大切であるという雰囲気を社会の中に形成することも、ますます大事になってくるのではないでしょうか。」(pp..236‐237)

文体は読みやすいが、章ごとに切り口が変わるところもあり、底流に流れる考えをしっかりつかむのは意外と難しい。じっくり読みたい本である。

 

目次

第1章 こころはどこにある?
第2章 遺伝子ターゲティングが拓いたこころの研究
第3章 こころの病に挑む
第4章 パーソナルゲノム時代の到来
第5章 ゲノムで性格や相性がわかるのか
第6章 ゲノム脳科学と近未来

 

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櫻井武 『「こころ」はいかにして生まれるのか 最新脳科学で解き明かす「情動」』講談社ブルーバックス、2018

2024-01-17 07:30:26 | 

我ながら自分の読書が偏っているなあと思うのは、自然科学系の本が殆ど無いことだ。本ブログで読書カテゴリーで450近くのエントリーをしているけど、「ブルーブックス」は今回が初めて。

本書は神経科学からみた「こころ」の働き方、生体の機能としての「こころ」の働き方を解説している。「こころ」の源泉は脳で生成され、脳は全身の器官に影響を及ぼして「こころ」を表現する。全身の器官もまた、脳に情報をフィードバックして感情や気持ちを就職し、「こころ」を変化させる。そのメカニズムが説明される。

筆者自身のまとめを引用すると、

「「こころ」は脳深部のシステムの活動、いくつかの脳内物質のバランス、そして大脳辺縁系がもととなる自律神経系と内分泌系の動きがもたらす全身の変化が核となってつくられている。また、他者の精神状態は表情を含むコミュニケーションによって共感され、自らの内的状態に影響する。そして最終的には、前頭前野を含む大脳皮質がそれらを認知することによって、主観的な「こころ」というものが生まれるのである。」(p.214)

慣れない用語が頻発し、日本語は平易だが中身の理解にはかなり骨が折れた。1番の収穫は、人間の「こころ」は、脳を中心にヒトの全身で成り立っている複雑でデリケートで奇跡的な仕組みであることを理解できたことだ。昨今、AIが世のトレンドであり、その能力にも驚嘆すること多々だが、「こころ」は明確に人とAIが線引きされる要素だろう。

一方で、「AIはこころを持てるのか」はよく目にするテーマである。複雑系のかたまりの「こころ」の仕組みを知る限り、それをエンジニアリングするというのはさすがに無理だろうと感じたが、様々な論考がされているようなので、この辺りは別に考えてみたいテーマだ。

「おわりに」で気になる記述があった。「性格の個人差」という論点である。本書ではエビデンス無いため記述しなかったと書いてあるが、こんな指摘をしている。

「「こころ」は学習可能なシステムであるがゆえに、生活環境といった環境要因に加え、「遺伝的要因」が色濃く反映される。それは、神経経路の構造の微細な差異や、第7章で述べたような脳内物質の受容体のほんの少しの差、それらの無限の組み合わせによって生まれると想像される。実際にモノアミン系の受容体には、いくつもの遺伝的多型が知られている。これらもまた、「こころ」の個性を作っていると考えられる。」(p.220)

身体や能力だけでなくて、「こころ」も遺伝要素があるというのだ。是非、筆者には、続編としてこのテーマについて掘り下げてほしい。

 

《目次》

第1章 脳の情報処理システム
第2章 「こころ」と情動
第3章 情動をあやつり、表現する脳
第4章 情動を見る・測る
第5章 海馬と扁桃体
第6章 おそるべき報酬系
第7章 「こころ」を動かす物質とホルモン
終 章 「こころ」とは何か

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