その後の『ロンドン テムズ川便り』

ことの起こりはロンドン滞在記。帰国後の今は音楽、美術、本、旅行などについての個人的覚書。Since 2008

With/After コロナにおける音楽を考える:岡田暁生『音楽の危機《第九》が歌えなくなった日』中公新書、2020

2021-02-18 07:30:00 | 

コロナ禍を契機として、「音楽と近代社会のありよう」について考察する一冊。「これまで社会は、音楽について何を自明とみなしてきたか」と「音楽の中に示唆されている、いろんな社会モデルを読み解く」という2点に焦点が当てて、筆者の考えが展開される。あとがきに「思考実験」という言葉が使われているが、コロナ危機を通じて、音楽の意味合い、クラシック音楽の未来を読者にも考えさせる。普段、現実の世界でぐちゃぐちゃになっている私には、久しぶりに学生に戻った感覚で、コロナという未曽有の事件・現象を通じて社会・文化を考える香り高い読書体験であった。

前半部分は、コロナ影響を通じてこんな思考ができるのかと驚きの連続であった。

例えば、「文化(音楽などの芸術)」も「風俗(娯楽・遊興・芸能など)」ともに文化人類学的には「聖(宗教的なもの)と俗(日常的なもの)」の「聖」である宗教的儀礼にに由来する同根であること。そして、近代社会が「文化」と「風俗」を二分化したのだが、今回コロナはこれらを一括りに不要不急のものとして中止・自粛を余儀なくされた。これはすなわち、コロナ禍が近代社会の前提を揺さぶり、文化の立ち位置に再考を促していることに他ならない、と言う。

また、「芸術」も「芸能・風俗・遊興」も、コロナでは避けなくてはいけない三密を前提にした緊密な共同体を作り出す仕掛けであり、それが「文化」の究極的な本質であること。すなわち「文化」とは、人がある密閉された空間に集まって発行した猥雑な空気が、蒸留されエッセンスになるプロセスであり、コロナは三密禁止により、文化にとって不可欠な発酵作用に対してダメ―ジを与えたことが指摘される。

更に、ベートーヴェンの第9交響曲は近代の物語としての「右肩上がりの時間」を体現したアイコンであり、第9が歌えなくなったコロナ禍は近代の世界観を揺さぶり「近代とは何だったのか」を再吟味を迫っている。コロナが終息しても、第9が象徴する「勝利宣言」の音楽をコロナ前と同じ気持ちで歌うことができるのか、と問いかける。

コロナ禍で、N響の演奏会が数は少ないが熱心なファン中心の集中度の高い演奏会になって、コロナも悪いことばかりでないなと単純に捉えていた私の浅い思考が恥かしくなる。

後半はポスト・コロナでの新しい時間モデルや新たな音楽のありようが考察される。コロナ以前からの課題であった「右肩上がりの時間の呪縛」からの脱皮が、コロナの「どう進むか検討もつかない時間」は従来の因習の縛りから自由になれるチャンスであり、音楽についても近代の目的論的な時間図式を抜本的に組み立てなおす絶好の機会だと言う。未来に向けた考察は、必ずしも歴史解釈、解説のような筆者ならではの切れ味は感じられなかったところはあるが、「思考実験」として読者がどう考えるかが問われる気がした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする