ピース又吉の「火花」が、三島由紀夫賞には惜しくも届かなかったが、芥川賞の候補にノミネートされたと聞く。
彼が心酔を公言する太宰治の作品を、遅ればせながらネットの青空文庫で通読している。
太宰、その人自体は津軽の大地主のボンボンで、学校もエリートコースを歩んだにもかかわらず、左翼運動にのめり込んだり、似非貧乏や無頼派を気取ったりの人格破滅型の人間だったようだ。
同業知人はおろか、天下の川端康成まで懐柔したり恫喝したり、はたまた何度も自殺未遂をやらかしたりと行動規範そのものがハチャメチャだ。
それは田舎者という劣等感、真っ当な職業に就けないという疎外感の裏返しで、ニヒルを気取るための金に困ったら、親兄弟の仕送りに頼るという体たらくだ。
そんなことを自虐的にではあるが、自著で臆面もなく披瀝するというトンデモ作家ぶりだ。
結局、38歳の若さで、愛人と入水してこの世と「グッドバイ」という、自己チューのあきれた野郎だ。
その命日を桜桃忌などと奉る輩もどうかしてるぜ。
で、その作品だが、これが、人格や生き様に反して素晴らしいもの数多である。
代表作の「人間失格」や「斜陽」などは言うに及ばず、短編にも読ませるものがある。
川端や三島の美しい文体とは違った、当時としては大胆にして繊細、縦横無尽の文章だ。
肩が凝らず、かといって軽薄でもなく、筋書きも面白く、読み進めるのが億劫ではない文章である。
長生きしてたらノーベル賞もあったかもと思われる。
又吉の「火花」も芥川賞受賞の前には読まないといけないな。
初夏の黄昏時に道を歩いていて、街路樹のクロロフィルの中に、ある種の匂いを知覚することがある。
それがトリガーとなり、懐かしい思い出が記憶の引き出しから、ふと甦ったりする。
整理整頓された上のほうの引き出しではなく、一番下の、乱雑に詰め込まれた引き出しの中の記憶、意識の底で忘れていた記憶だ。
たとえば、小学校の夏休みに祖母と出かけた墓参りの帰りに、汽車の時間待ちで入った食堂の事や、大学時代のオールナイトの映画館でのバイトの事、嫁と行った秋の能登半島の灯台の事とかが、知覚した匂いとともに、何の脈絡もなく浮かんでくる。
視覚や聴覚、あるいは味覚から思い出す記憶というのはよくあるが、嗅覚からというのはなかなかない。
人間が動物みたいに嗅覚が鋭かった、太古の昔の名残りなのか。
匂いが海馬を刺激して、そのシグナルが神経細胞の回路を複雑に経由して、それらの記憶にたどり着くのだろうか。
いずれにせよ、それらの記憶は懐かしさというラベルを貼られて、晴れて上段の記憶の引き出しに入れ替えられることになる。
嗅覚や恐るべしである。
それがトリガーとなり、懐かしい思い出が記憶の引き出しから、ふと甦ったりする。
整理整頓された上のほうの引き出しではなく、一番下の、乱雑に詰め込まれた引き出しの中の記憶、意識の底で忘れていた記憶だ。
たとえば、小学校の夏休みに祖母と出かけた墓参りの帰りに、汽車の時間待ちで入った食堂の事や、大学時代のオールナイトの映画館でのバイトの事、嫁と行った秋の能登半島の灯台の事とかが、知覚した匂いとともに、何の脈絡もなく浮かんでくる。
視覚や聴覚、あるいは味覚から思い出す記憶というのはよくあるが、嗅覚からというのはなかなかない。
人間が動物みたいに嗅覚が鋭かった、太古の昔の名残りなのか。
匂いが海馬を刺激して、そのシグナルが神経細胞の回路を複雑に経由して、それらの記憶にたどり着くのだろうか。
いずれにせよ、それらの記憶は懐かしさというラベルを貼られて、晴れて上段の記憶の引き出しに入れ替えられることになる。
嗅覚や恐るべしである。