年が明けたがなんの感動も感慨もない。
感動的な出来事、景色や風景、映画や小説、音楽や絵画、人やモノ、エピソード…そんなものにはついぞお目にかからない。
その昔、満身創痍の貴乃花の優勝に、一国の総理が「感動した!」などと叫び、昨年末もキタサンブラックの有馬記念優勝に、演歌の大御所が感動を露わにしたが、私のまわりには感動のかの字もない。
若い頃、私たちの世代は三無主義などと揶揄されたものだが、未だにそれが当てはまっているのか、感動のボタンは錆び付いたままだ。
過去に嬉しかったことや喜ばしいことはあったが、感動というレベルには程遠かった。
感動というのは、それこそ喜びに身体が打ち震えるくらいの激しい情動だ。
そうたやすく我が身に起こるべきものでもないだろう。
それにもかかわらず、世間の皆様のSNSでは、日々感動のオンパレードだ。
余程、世間知らずなのか、感情過敏症なのだろう。
感動的な出来事、景色や風景、映画や小説、音楽や絵画、人やモノ、エピソード…そんなものにはついぞお目にかからない。
その昔、満身創痍の貴乃花の優勝に、一国の総理が「感動した!」などと叫び、昨年末もキタサンブラックの有馬記念優勝に、演歌の大御所が感動を露わにしたが、私のまわりには感動のかの字もない。
若い頃、私たちの世代は三無主義などと揶揄されたものだが、未だにそれが当てはまっているのか、感動のボタンは錆び付いたままだ。
過去に嬉しかったことや喜ばしいことはあったが、感動というレベルには程遠かった。
感動というのは、それこそ喜びに身体が打ち震えるくらいの激しい情動だ。
そうたやすく我が身に起こるべきものでもないだろう。
それにもかかわらず、世間の皆様のSNSでは、日々感動のオンパレードだ。
余程、世間知らずなのか、感情過敏症なのだろう。