ご近所の蘆花恒春園に住んでいた
明治・大正期の文豪、徳冨蘆花を知る文学講座。
粕谷区民センターでは定期的に徳冨蘆花に関する講座を開催しています。
地元の偉人を知って、郷土愛を深める、そんな目的です。
素晴らしいですね。
明治・大正期のベストセラー作家で、当時の教科書にも
多くの作品が掲載されていたにもかかわらず、
現在、徳冨蘆花の名前を知る人は多くはありません。
区民センターの地下にある粕谷図書館でも
常に徳冨蘆花に関する展示があり、
徳冨蘆花関連図書コーナーもあります。
3回シリーズですが、参加できるのは2回目のみ。
テーマは「徳冨蘆花の生涯を知る」。
明治元年、熊本で生まれた蘆花(本名は健次郎)は、
同志社英学校で学び、
兄の蘇峰が経営する民友社入社。
翻訳、記事作成に加え、小説も執筆。
「国民新聞」に連載した小説「不如帰」が人気となり、
単行本化された『不如帰』はベストセラーとなる。
文豪トルストイの作品に感銘を受け、
38歳の時にトルストイに会いに行く。
その後、トルストイの影響を受け、
「美的百姓」の生活を実現すべく千歳村粕谷に転居。
粕谷での生活の様子を綴った随想集『みみずのたはこと』刊行。
1919(大正8)年、愛子夫人と1年に及ぶ世界一周旅行へ。
療養のために訪れていた伊香保で1927(昭和2)年、58歳で死去。
賀川豊彦との接点を探りたかったのですが、
配布された年表によると、
1922(大正11)年に神戸で初めて賀川豊彦に会っています。
1923(大正12)年に発生した関東大震災の直後、
賀川は救援活動のため本所に来て、
その後、上北沢に居を構えています。
粕谷から遠くないところに住んでいたわけで、
当時、交流があったのか、出会っていたのか知りたいところですが、
講師の方に質問したものの、よく分からないと。
賀川は上祖師谷に農民学校も作っていたので、
農業という部分でも、またキリスト者としても
共通点があったはず。
徳冨蘆花と同じく、賀川豊彦も、
もっと現代の人に知られていいはずの人です。
以前にご紹介したものを見てみてください(1、2、3、4、5)。
帰り道、木村屋のパン屋さん前で、柑橘類と青パパイヤ、野菜が大賑わい!
みかん100円と青々としておいしそうな小松菜100円購入。無農薬です。
素朴なみかんの味、とても気に入っています。3回連続購入。
本当にいいところに住んでいます、私。
明治・大正期の文豪、徳冨蘆花を知る文学講座。
粕谷区民センターでは定期的に徳冨蘆花に関する講座を開催しています。
地元の偉人を知って、郷土愛を深める、そんな目的です。
素晴らしいですね。
明治・大正期のベストセラー作家で、当時の教科書にも
多くの作品が掲載されていたにもかかわらず、
現在、徳冨蘆花の名前を知る人は多くはありません。
区民センターの地下にある粕谷図書館でも
常に徳冨蘆花に関する展示があり、
徳冨蘆花関連図書コーナーもあります。
3回シリーズですが、参加できるのは2回目のみ。
テーマは「徳冨蘆花の生涯を知る」。
明治元年、熊本で生まれた蘆花(本名は健次郎)は、
同志社英学校で学び、
兄の蘇峰が経営する民友社入社。
翻訳、記事作成に加え、小説も執筆。
「国民新聞」に連載した小説「不如帰」が人気となり、
単行本化された『不如帰』はベストセラーとなる。
文豪トルストイの作品に感銘を受け、
38歳の時にトルストイに会いに行く。
その後、トルストイの影響を受け、
「美的百姓」の生活を実現すべく千歳村粕谷に転居。
粕谷での生活の様子を綴った随想集『みみずのたはこと』刊行。
1919(大正8)年、愛子夫人と1年に及ぶ世界一周旅行へ。
療養のために訪れていた伊香保で1927(昭和2)年、58歳で死去。
賀川豊彦との接点を探りたかったのですが、
配布された年表によると、
1922(大正11)年に神戸で初めて賀川豊彦に会っています。
1923(大正12)年に発生した関東大震災の直後、
賀川は救援活動のため本所に来て、
その後、上北沢に居を構えています。
粕谷から遠くないところに住んでいたわけで、
当時、交流があったのか、出会っていたのか知りたいところですが、
講師の方に質問したものの、よく分からないと。
賀川は上祖師谷に農民学校も作っていたので、
農業という部分でも、またキリスト者としても
共通点があったはず。
徳冨蘆花と同じく、賀川豊彦も、
もっと現代の人に知られていいはずの人です。
以前にご紹介したものを見てみてください(1、2、3、4、5)。
帰り道、木村屋のパン屋さん前で、柑橘類と青パパイヤ、野菜が大賑わい!
みかん100円と青々としておいしそうな小松菜100円購入。無農薬です。
素朴なみかんの味、とても気に入っています。3回連続購入。
本当にいいところに住んでいます、私。