ひつこく、運動会の出来事。
息子の1つ上のクラス、2歳児クラスの玉入れ。
玉をりんごとみかんに見立て、先生が背負っている籠にいくつ入れることができるのかを競い合う。
もちろん、多い方が勝ち。
入場時から、みかんチームはチームワークとやる気がみなぎっており、
闘志とまとまりを失っているりんごチームより優勢。
始まると、先生(籠)が円を描きながら、移動していく。
単に固定されている籠に入れるだけでなく、追いかけることが必要な演出か!
みかんチームの子供たちが嬉しそうに先生を追いかけながら、
籠にフルーツを投げ入れていく。
結果、予想通りみかんチームの勝ち。みかんチーム、万歳!
ここで、りんごチームの先生に向けてアナウンスが入る。
「先生、次は ゆっくり走ってくださいね」 先生が笑顔で了解の手をあげる。
なんと先生は勝敗調整のために送り込まれた刺客だったのか!!
「続きまして、2回戦、スタート」
みかんチームの先生が倍速走り。みかんチーム、やる気だけではとうてい追いつけない。
止まっているかと思わんばかりのりんごチームの籠にはどんどんりんごがたまっていく。
結果、当然りんごチームの圧勝・・・りんごチーム、まばらに万歳。
1回ずつ勝つという平等。これはいいのか?
共に競り合っての結果ならいい。
頑張ったみかんチームが最初に勝ったがゆえに、敗北で終わるとは・・・。
終わりよければすべてよし、なんて言葉もある。
みかんチームが敗北にむせび泣いていたわけではないが、
勝利して退場の方が気持ちよさそうな気がする。
何より、敗者・りんごチームの子達にとって、不明瞭な勝利が本当にいいことなのか?
りんごチームのまばらな万歳に、勝利への執着心など感じなかったが、
勝った達成感を味わえたのだろうか?
負けた時が、成長や教育のチャンスではなかろうか・・・
りんごチームの親たちは嬉しいのだろうか?
これは一体誰のための配慮なのか?
10年前ほどのことである。
幼稚園の運動会を見学した時、かつて私が子供だったころの運動会の風物詩、
パパとママの二人三脚がないことに気づいた。
色々な家族形態がありますので配慮しております・・・とのことであった。
当時、独身だった私は園のきめ細かな配慮だと関心した。
あれから10年。
小学校の運動会で、子供は観戦に来た親とお弁当を食べることができず、
教室で食べるという話をきいた。
配慮もここまで来たかと驚いた。
これが今でなく、先に続く真の配慮といえるのであろうか?
社会に出た時、いきなり直面する不公平な世界の厳しさに、
子供たちの心が折れてしまわないだろうか?
満ちることに配慮するより、
足りないことに対しての強さを養うべきではないだろうか・・・
子どもと例えばトランプで神経衰弱する時も、全力でやる。
もちろん僕が勝つよ。
娘は負けて、悔しくて、泣くよ。
僕は、泣くなって言う。
泣くならもう遊ばない、って突き放す。
娘は泣くのを我慢して、またやろう、って言う。
もしそれで、本当に娘が勝った時、それは真の勝利。
その時、本当に頑張って勝利を得る嬉しさを知って欲しいから、僕はやっぱり今日も全力で子どもと接するよ☆
と言っても、別にスパルタじゃないからね。
もちろん、ごっこ遊びで負けてみせたり、やられてあげたり、そんなことだってする。
ただ、ひとつのルールが定まったゲームで、わざとに負けるのはしないだけ。
それじゃ、子どもはいつ自分の力で勝ったのかわからんから。
で、何が言いたいのかというと、僕もとーまさんと同じようにその“配慮”にひっかかりを覚えるし、そんな風に勝敗を操作し、作為的に平等にするのはどうかと思う。
うちの幼稚園の運動会は年長、年少が合同で3チーム分かれていたけど、種目毎に「1位○○チーム、2位××チーム、3位△△チーム。がんばった△△チームにも拍手をお願いします」っていう流れやった。
1位、2位は喜び、3位には健闘を称える、そう決まってたみたいやわ。
それにしても、小学校の運動会で子どもとお弁当が食べられないって本当??
確かに、食べることのできない小学校は存在するらしいの。
そうなの。
自分がどうして勝ったのかわからなかったり、
勝つということ自身不明瞭になるから。
どちらかといえば、
今回、敗者に対して本当にいいことなのか?なの。
負けたときが、成長な教育のチャンスだったりするような。
仮に、親に対する配慮だとしても、
ここで子を思うからの教育だと説明すればいいような。
ややこしくなるなら、勝負は1回だけにするとか。
健闘を称える拍手なら、いいかな。
でも、勝つという結果まで・・・と思ってしまう。
園を批判しているわけではなくて、
ひっかかったという話なんだけどね。
仮に小学校に入ったとき、
いじめまで考えてのことだといわれたとしても、
そこで、いじめることに対しての指導ができるのではないかと思うの。
何を甘いことをと言われるかもしれないけれど、
社会はそんなに甘いのかな・・・
学校を卒業した時、いきなり不平等不公平な世界の厳しさに折れてしまわないだろうか・・・
むしろ、そっちの方が心配なわけ。
1人頭の中でそんなことをぐるぐる ぐるぐると。
満ちることに配慮するよりも、
足りないことに対しての強さを養う。
ハングリー精神、時には必要な気がするのです。
>負けたときが、成長な教育のチャンスだったりするような。
>学校を卒業した時、いきなり不平等不公平な世界の厳しさに折れてしまわないだろうか・・・
>満ちることに配慮するよりも、
足りないことに対しての強さを養う。
このとーまさんの言葉にはかなり同感。
勝つことの喜び、負けることの悔しさ。
勝つための努力、目標の達成。
勝敗を曖昧にするよりも、明確にすることで学び、成長できるチャンスがあるように、僕も思う。
それに僕たちの時代は何の配慮もされてなかった。
でも、僕たちはそれでオカシナ人間になった?
それを元にイジメに走った?
やっぱり、ちょっと変な感じがするね、その方向性の間違っているような配慮。
でも、きっと、これからそういうちょっと首をかしげるようなことが、どんどん起きるんじゃない?
モンスターなんちゃらとかもいるから。
だから、だからこそ、僕は自分の信じる子育て、躾、道徳、を我が子にはビシバシ伝えていくつもり。
学校が曖昧になるなら、家庭はその分もブレない芯を持って望まないと、って思う。
望まないと…×
臨まないと…○
コメントの再編集ができず(仕方がわからず)、でも気持ち悪いの追伸しておきます(苦笑)
これもコダワリ??
悩みや不安の多い今日この頃。
眠れず、パソコンに向かっています。
コメントにて、共感していただいたところを
いつでもすぐに思い出せるよう、
無理やり文中に入れ込みました。
第一稿の方がよかった。蛇足だ。
なんていわないでね・・・上書き校正したから、
もう元には返ることができないの(泣)
コメント欄ね~管理人の私でさえ、訂正できないの。
だから、コメントこそ私の即興執筆。
誤りもそのままにホットだから、
後でコメントの方が本文よりいいなと思うこと
あるの。
昔、昔からいじめはあったと思う。
今の時代とは少々異なるかもだけど。
何かしらの「差」から、生じるけど、
そこに先生という指導者がいたり、
そこを体験する貴重な場があったから。
先手の配慮は、そのチャンスを失っているような気がするわ。
そして、そんな場が小さければ小さいほどいいのかなとも。
修正しやすい(笑)
子供の頃体験したから大人になって・・・
ってのがあると思う。
やまちゃむにはいつも心に子育て指針を感じるわ。
独自の自信の。
そこ、ゆらいでないと、いいよね。
そら、あるよね。
僕にもあるよ。
だから、自信なんてないよ。
微塵も残っちゃいない。
旅ばかりしてた時は、一切不安なんてなかった。
不安定な社会的地位も不安じゃなかったし、悩むことなんてなかった。
自分自身に自信も持ってたし。
それが今となっては…。
なんだか見えない透明のロープで縛られて、右に動けばこっちが絞まり、左に動けばそっちが絞まる。
ガンジガラメで、蜘蛛の巣にかかったマヌケな虫みたい。
親になって背負った重責。
増える白髪。
いっそ司馬遼太郎みたいになればいいのに。
それでもね、子育ての芯みたいなのだけは、揺るがずに、少なくとも今は持ててる。
いつも笑顔の子どもが、不安定な僕の“今”を支えてくれているのかもしれない。
やまちゃむは絵が描けるので、
ぜひ、漫画を描いて欲しいわ。
私に絵心があれば、長々とした文章でなく、
4コマで表現できるのに・・・
ないから、状況を文字で伝えるのが大変。
今、パパの育児漫画もはやっているし、
ぜひその素敵なパパぶりを漫画化してください!
そこからはいって、最後、司馬遼太郎、
なんていかがでしょうか?