こげの耳に★ねんぶつ★

たわいない日々の思うことと愛犬こげと花が咲いていたら花の写真など

古座川魅力まっぷ(知図帳)②

2010-06-07 05:30:00 | 和歌山県


『風土とFOOD』『川漁法』を見開くと右に『歴史の成り立ち』『林業について』、

左には『稀少植物』『稀少動物』という4つの項目に分けられた面が現れました。どひゃ~

なかなか凝った作りになっていました。

『歴史の成り立ち』の中に4つの小見出しがあり≪人々の定着≫≪戦国時代の伝説≫≪雑賀

衆と藩の行政≫≪古座川町と那智山≫と分かれています。

私がまとめると、歴史文化の中心とならなかった地方の歴史は、周辺地域とかけ離れた独特

なものになるということはありえず、これを前提にすると縄文・弥生時代頃には周辺地域の

状況から考えて少なくとも下流域には人々が定着していたんだって。中世になって古座川中

上流部に人々が定着、江戸中後期の説話などに影響された平家落人伝説などが残っており、

実際のところはわかりません・・・って、わからんのかい。でも、戦国から徳川幕府が開か

れるまでの間の紀南地方の在地勢力で、古座川町に直接関係するのは西向の小山、古座川下

流左岸の高川原両氏で、それぞれが古座川上流部の在地勢力と友好関係を保っていたんじゃ

ないかなと推測され、それを知るには古座川奥地に残る様々な家系の伝承が参考になるかも

しれない。別枠に【家系の伝承について】永正年中(1504~1520)に信州から三尾

川に移り、その後大庄屋を務めて、医家となった日下(くさか)家、承久3年(1221)

官軍に属し破れた村上清重一行が古座川を遡上のの際、昼食を供したといわれる蔵土(くろ

ず)の山本家、遠祖が藤原鎌足で伊豆の伊東から移り住み、未開の土地を大桑と名付けたと

いわれる伊東家、原生林を開拓したのが西川の始まりであるとされる朝日一族や、近隣地域

を所有して西河荘司と称したといわれる村上家などの伝承が残されています。また熊野浅里

郷へ退避した御南朝皇族を名乗る山田宮融仁王(みちひとおう)は、嘉吉(かきつ)4年

(1444)寄留先の伊勢国山田村から退避をはかり、文明元年(1469)に没後、貴子

重親が樫山村の深山幽谷に移り、高山(鳥屋森山)を国王山、在所を大雲郷としたといわれ

ています。・・・・前半は解るけど後半は あ~さっぱり、さっぱり。問題の浅里氏の名前

が・・・。

 さてさて江戸時代に入って、徳川幕府の支配が確立してからは和歌山市を中心とするその

近辺の雑賀衆(浄土真宗)の流れを汲む人達が紀南地方に多く進出し、海運を中心に商業の

中核を担っていくように・・・。それ以前の戦国時代にもそのきざしはあった。それとは

別に、在地、あるいはその他の地方から進出した地方支配の中核を担う庄屋などの流れも

あった。藩の行政の中に当地方も組み込まれ、すさみに代官所が置かれて、紀州本藩の直轄

領地だったそうだ。古座には二歩口役所、高川原には御仕入方役所(おしいれかたやくし

ょ)などが置かれていた。●高川原御仕入方役所 高池(清水)元高池町役場(空地)

               ●滝の拝御仕入方役所 滝の拝橋北詰(現駐車場付近)

               ●西川御仕入方役所  西川(上地)斗ノ倉橋付近

この御仕入方役所は次の『林業について』でも書かれています。こう年号と歴史の中の制度

とかを書いていたら、なんか日本史のノートを綴っているような錯覚に陥ります。

≪林業のはじまり≫室町時代には市場経済が発達して京都近辺では造林が始まっていたけど

古座川流域には商品生産としての林業はほとんどなかったらしい。地質的にも似ている四国

南部、九州南部と比べて、山に生息する哺乳類・昆虫類の多様性、植物の多様性があること

から山林原野の開発が本格的になったのは、紀州藩による産業振興の政策、その中心が御仕

入方役所以来と考えられる・・・んだそうだ。山に生息する哺乳類の多様性、まさに現代も

シカ、イノシシ、カモシカ、サル、アナグマ、アライグマ、タヌキ、ウサギ、等々アライグ

マなんか洋物だもんね。そのまま生息してますね。

≪御仕入方役所の設置≫1702年に高河原(現、高池)に御仕入方役所が設置され、のち

に西川、滝の拝などにも設置。御仕入方役所は藩営だったけど商人に販売・仕入れを委託し

た商品生産統制制度であり、救貧対策としての生活資金貸付なども行っていたため市場経済

が遅れていた当地方は、紀北に比べ在地の商人からの反発もなく、むしろ地域住民からは

生活安定のために歓迎されていた制度。

≪林業生産物と輸送≫江戸時代、紀州南部では黒炭生産から備長炭の白炭生産が主流となり

古座川流域ではほとんど備長炭生産中心で、ほかには斧を用いた短い板材も生産し、その後

木挽きの導入で板、樽丸(樽用木材)、小割物、丸太、粗造りした角材、杉皮なども生産、

松煙も生産された。当時は、炭を人の肩で運び出し、滝の拝や真砂(まなご)などの集積地

から川舟で、古座川下流域では集落周辺の道路沿いでは人の肩から牛馬車に積み替えていた

とも考えられる。この炭は古座川河口から江戸や大坂に向けて出荷された。

 こうして林業が地域の産業として育つと、それを運ぶ輸送手段も人から舟、牛馬と進化し

道具も工夫され丸太が角材加工され、商品が増加するようになりいよいよ植林技術が導入さ

れ、1700年頃には植林が始まっていたようだ。

≪植林ブームと生産の合理化≫明治期以降、ドイツ流の林学の導入に伴って、国の指導もと

県が新しい林業知識の普及に努め、旧来の高度の技術があったことや補助金政策と相まって

植林ブームが起き材木生産も活発になり、製材品の生産も、伐採搬出の技術の革新、製材技

術の進歩によって飛躍的に増大し、戦前はなお海外に輸出まで行われていたらしい。(今か

ら思うと信じられないけどねぇ、前に今でも国産材の高級品は中国のお金持ちのところに行

ってる、とかなんとかってテレビで見たような・・・。国内で高値で買い取ってくれれば林

業も衰退しないですむものを・・。)でもって、国策の徹底、経営基盤の強化・合理化のた

めに山林所有者、木材生産者や製炭業者の同業組合なども組織された・・・。この頃が山林

を持つ者が儲かり、伐採しては50年先までも安泰と算段し植林をしたわけだ。まさか、

住宅事情がこうも変化し、外国材がバンバン輸入されるとは思わなかったんでしょうね。

木は儲かる・・なんて信じたのか、奥地の不便なたんぼを杉林にしたところや、川の土手ギ

リギリまで植えこみ、今やその根っこが護岸の下まで伸びているとか、でも木材不況で伐採

・搬出代を支払うと儲け思うほどなく50年前の植林の苦労が無駄に思えて、伐採のあとに

再び植林を行う気力も出ず、山はほったらかしで荒れてゆくばかりなのだね。

≪生活の変化と林業の盛衰≫古座川流域では、商品生産として備長炭の生産と柱角生産が

中心でしたが戦後、道路網が整備されると林業はますます活況を帯びました。その過程で

古座川源流域の貴重な自然林も伐採されましたが、地元への経済効果は抜群だった・・・

その当時、それが貴重な自然林とはたぶん誰も気がつかなかったと思います。わかっていた

のは【熊野の巨人 南方熊楠】くらいだったでしょうね。・・・その後、都市ガスの普及な

どで備長炭の需要は急速に低下し、まず製炭業が衰退した。その前に製紙産業も特に戦後の

高度成長下で活性化して、古座川流域でもパルプ材生産が増大したのだが、またここに海外

からの製紙用チップの輸入が本格化するとそれも衰退してしまった。そして今、古座川の

林産物の主流である製材品にしても、外材との競合、建築、建材に対する規制強化、建築様

式の変化などにより、材価が低迷し町の林産業も苦境にある・・・。まさに、そうなのだ。


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