最近、30数年前に買った本を寝る前に読み返しています。
その中で、「ハイムヴェー」と「フェルンズーフト」という「言葉」が出てくるのです。
ドイツ語なのですが、「ハイムヴェー」には「懐郷」と云う訳語があり、「フェルンズーフト」には「遠くを憧れる心」という訳語がついていました。
普通、人はこの二つの「想い」を「対に」にして、心の中でバランスをとっているそうです。
それで、「ハイムヴェー」の訳語の「懐郷」なんですが、同義語としては「望郷」とか「思郷」という言葉があり、すんなりと理解できます。
それに対して「フェルンズーフト」ですが、訳として「遠くを憧れる心」となっており、辞書で調べても、適切な「熟語」がないのです。
ドイツ語に有る言葉が、日本語には適切な言葉がない、もしかしてこれは「狩猟民族」と「農耕民族」の違い? それじゃ「遊牧民族」はどうなんだ? 何て思ったりして・・・・・・。これは「ややこしく」なるので・・・・・・中断。
「熟語」が無いと云うことは、「昔」はあまり一般的な「感情」ではなかったと解釈できそうな「気」がしたのですが・・・・・・。
いろいろと調べると、「憧れる」と云う言葉は、
【憧る】あくが・る
一説に、「あく」は「ところ」、「かる」は「離れて遠く去る」意の古語。鎌倉末期から「あこがる」の形が現れる。
本来いるべき所を離れて浮れ出る。貫之集「宿離かれて―・れぬべきここちこそすれ」
「何かにさそわれて」魂が肉体から離れる。源氏物語柏木「かの院のうちに―・れありかば結びとどめ給へ」
物事に心を奪われて落ちつかない。そわそわする。落窪物語2「ただ―・れに―・る」
離れる。うとうとしくなる。源氏物語真木柱「御中も―・れてほどへにけれど
[岩波書店 広辞苑第五版]
と、云うことで「憧れ」それ自体に「遠くを想う心」を含んでいるのでした。
昔は、「憧れ」ようにも、遠くの「情報」がなく、生まれた土地で一生を終わるのが「普通」でしたし、情報と財力は「一部の特権階級」が独占していました。
まぁ。「そんなこんな」で、ゴールデンウィークの「混雑」「渋滞」をテレビで眺めながら、「フェルンズーフト」の人は海外旅行へ、「ハイムベヴェー」の人は国内旅行へ・・・・・・・何て「うとうと」考えながら、「焼酎」などを飲んでいます。
それで、私なんですが、「遠くを憧れる心」と云うよりも、「知らないところ」を見てみたいと思い、これまで「いろいろ」なところを、「ウロウロ・キョロキョロ」と歩いてきました。
「遠く」と「知らない」は意味が重なる言葉だと思います。「遠くと・知らない」で思い浮かぶのは、『遠くへ行きたい』と云う歌です。
『知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめていたい
どこか遠くへ 行きたい・・・・・・』
若い頃には、「知らない街」は「どこか遠く」でしたが、最近は「近く」の「知らない街」の方が、「不思議」で楽しいのです。
知らない街で、知らない人が、普通に暮らしていることが「不思議」で「面白い」のです。
人は皆どうして「遠くへ行きたい」のでしょうか?
人生の「最後」は、ひとり「遠く」へ「旅立つ」ことへの「想い」が、そうさせるのでしょうか?・・・・・・・。
それでは・・・・・・・・・・・・
その中で、「ハイムヴェー」と「フェルンズーフト」という「言葉」が出てくるのです。
ドイツ語なのですが、「ハイムヴェー」には「懐郷」と云う訳語があり、「フェルンズーフト」には「遠くを憧れる心」という訳語がついていました。
普通、人はこの二つの「想い」を「対に」にして、心の中でバランスをとっているそうです。
それで、「ハイムヴェー」の訳語の「懐郷」なんですが、同義語としては「望郷」とか「思郷」という言葉があり、すんなりと理解できます。
それに対して「フェルンズーフト」ですが、訳として「遠くを憧れる心」となっており、辞書で調べても、適切な「熟語」がないのです。
ドイツ語に有る言葉が、日本語には適切な言葉がない、もしかしてこれは「狩猟民族」と「農耕民族」の違い? それじゃ「遊牧民族」はどうなんだ? 何て思ったりして・・・・・・。これは「ややこしく」なるので・・・・・・中断。
「熟語」が無いと云うことは、「昔」はあまり一般的な「感情」ではなかったと解釈できそうな「気」がしたのですが・・・・・・。
いろいろと調べると、「憧れる」と云う言葉は、
【憧る】あくが・る
一説に、「あく」は「ところ」、「かる」は「離れて遠く去る」意の古語。鎌倉末期から「あこがる」の形が現れる。
本来いるべき所を離れて浮れ出る。貫之集「宿離かれて―・れぬべきここちこそすれ」
「何かにさそわれて」魂が肉体から離れる。源氏物語柏木「かの院のうちに―・れありかば結びとどめ給へ」
物事に心を奪われて落ちつかない。そわそわする。落窪物語2「ただ―・れに―・る」
離れる。うとうとしくなる。源氏物語真木柱「御中も―・れてほどへにけれど
[岩波書店 広辞苑第五版]
と、云うことで「憧れ」それ自体に「遠くを想う心」を含んでいるのでした。
昔は、「憧れ」ようにも、遠くの「情報」がなく、生まれた土地で一生を終わるのが「普通」でしたし、情報と財力は「一部の特権階級」が独占していました。
まぁ。「そんなこんな」で、ゴールデンウィークの「混雑」「渋滞」をテレビで眺めながら、「フェルンズーフト」の人は海外旅行へ、「ハイムベヴェー」の人は国内旅行へ・・・・・・・何て「うとうと」考えながら、「焼酎」などを飲んでいます。
それで、私なんですが、「遠くを憧れる心」と云うよりも、「知らないところ」を見てみたいと思い、これまで「いろいろ」なところを、「ウロウロ・キョロキョロ」と歩いてきました。
「遠く」と「知らない」は意味が重なる言葉だと思います。「遠くと・知らない」で思い浮かぶのは、『遠くへ行きたい』と云う歌です。
『知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめていたい
どこか遠くへ 行きたい・・・・・・』
若い頃には、「知らない街」は「どこか遠く」でしたが、最近は「近く」の「知らない街」の方が、「不思議」で楽しいのです。
知らない街で、知らない人が、普通に暮らしていることが「不思議」で「面白い」のです。
人は皆どうして「遠くへ行きたい」のでしょうか?
人生の「最後」は、ひとり「遠く」へ「旅立つ」ことへの「想い」が、そうさせるのでしょうか?・・・・・・・。
それでは・・・・・・・・・・・・