歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

水戸「弘道館」で「寝転んで」!?

2007年05月15日 | 建物の話し
昨日の続きです。

本日は、「三の丸庁舎」の裏手にある「弘道館」を見学します。

その前に「小ネタ」を一つ。
それは、庁舎の回りを「ウロキョロ」していた時何です、駐車場の先に「パステルカラー」の「建造物」を見つけました。

外観的には「配水塔」と思われるます。それにしても「色使い」が『チョット!チョット!』と、思うのです。周りの風景からも「浮いて」います。

「圧迫感」を「消す」為の「パステルカラー」なのでしょうか? 何でも「明るく爽やか」にすれば「いいのか?」と、「おじさん」は云いたい!

調べてみたら、「国の登録文化財」で1932年(昭和7年)に造られた「配水塔」でした。


さてと、庁舎の裏口から外に出ると、そこは「弘道館公園」です。梅林を通り、数分で「弘道館」の正門に到着します。


なかなか「立派」な「構え」です。さすが「徳川御三家」、「水戸藩」の「藩校」です。


入館料190円を払い、靴を脱ぎ見学です。
正面玄関から入って直ぐの部屋には、「大きく太い文字」の「掛け軸」があり、「尊皇攘夷」の略語、『尊攘』の文字が飛び込んで来ます。

「尊皇だぁ!」、「攘夷だぁ!」、「倒幕だぁ!」、「佐幕だぁ!」、「新撰組だぁ!」「鞍馬天狗だぁ!」何て、幕末の「チャンバラ物」の世界を思いだします。



「弘道館」は歴史ある「藩校」と思っていたのですが、第9代藩主「徳川斉昭」により天保12年(1841年)に創設されたそうです。

大政奉還が1867年ですから、幕末近くになって創設され、幕府が倒れた後の、明治5年(1872年)に「弘道館」は「閉鎖」されているのです。

たった「31年」の命だったのです「短い」です。私は天下の副将軍「水戸光圀」が造ったのかと思っていました。「黄門様」は「エライ人」でしたから・・・。

これが「正庁の間」と云って、弘道館で「一番の部屋」だそうです。藩主が臨席して「学科試験」が行われたり、庭先で行われた「武術試験」を、ここから見ていたそうです。

床の間の「掛け軸」は「弘道館」の「創設」にあたり、水戸藩士の学者「藤田東湖」が書いた「設立趣意書」の「拓本」だそうです。


この日は、見学者は私一人だったので、案内の録音テープを「寝っ転がって」聞いていました。当時であれば「打ち首」ものでしょう。

しかし、由緒のある、広い座敷にただ一人、「寝っ転がって」当時を偲ぶのも「これまた」いいものです。



寝っ転がりながら「何とはなし」に「畳」を眺めていたら、何と「縁」の模様が「三つ葉葵」なのです。これって「史実」の再現なのでしょうか?

当時も「葵紋」の「縁」であったとしたら、「縁」を誤って「踏んだ」藩士は、処罰されそうですね。大変です!

そういえば何かの本に、「仕来り」とか「作法」として「畳の縁」は「踏んではいけない」何て、書かれていたような気がします。


そうです。恒例の「トイレ拝見」です。
「広い」ですねェ~。畳敷きです、これでは「落ち着かなくて」出る物も出ません。さすが「殿様」の「便所」です。

「使用禁止」の「貼り紙」です。「貼り紙」が無い頃に「使用」した「不届きな輩」がいたのでしょう。なかなか「度胸」が「座った」輩です。

「弘道館」は、幕末から明治にかけての「歴史」を勉強してから見学すると「面白そう」です。

勉強してからまた来ようと思います。

明日からは、水戸の「未体験ゾーン」を「走り」ます。今回は自転車でしたから「行動範囲」が広げられ、「端っこ」も見てきました。

それではまた明日。 

コメント
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