わが地元奈良県の、私の住む隣町である桜井市の纒向遺跡というところで、3世紀前半の大型建物遺構が出土したのだそうです。高床式の建物で、柱穴などから、東西12.4メートル、南北は19.2メートルと、当時の建物としては国内最大規模、発掘した市の教育委員会では、「遺跡中枢部の居館域で、中心的な人物がいた建物」と説明されており、女王卑弥呼が活躍していた時期と重なることから、これぞ卑弥呼の住まい、という意見もあるのだとか。遺跡には、昼は人が作り、夜は神が作ったと言う伝説がある最古級の前方後円墳、箸墓古墳があり、卑弥呼の都の有力候補だったわけですが、この建物の発掘により、一段とその可能性が高まった、というのだそうです。
さて、私はというと、古代史は大好きなのですが、実のところ余り興味が無い、というか、何故に卑弥呼なの? という気がどうしてもぬぐえないでいます。そもそも卑弥呼という名前自体、魏王朝の誰かが勝手に漢字を当てはめただけであって、我が国でつけられたり呼ばれたりしたものではありませんし、当時の日本と中国との交流がどの程度あったのかは推測の域を出ませんが、列島の隅々に住まいしていた日本人のうち、中国と関係を持っていたのは極わずかなものでしょう。そんな特殊な一事例を持って、まるで我が国の古代史を代表する人物であるかのごとく扱うということに、どうしても抵抗があるのです。その当時の日本人が、魏志倭人伝にしか痕跡を残していない、という事を考慮したとしても、何でもかんでもその当時と目される出土物を卑弥呼に関連付けて語る必要が本当にあるのか、卑弥呼に関連付けることが本当に正しい古代史の理解に繋がるのか、というのが素朴な疑問としてあります。そもそも中国の歴史書に出てくる倭国という国が本当にこの列島に実在していたのか、など、疑い出したらきりが無いように思えるのです。
卑弥呼、もしくはそれを連想させそうな名前が日本書紀にも古事記にも伝えられていないというのを考えると、実は奈良の古代史とは何の関係も無く、中国にごく間近な九州などの地方集団の長の一人、ということであったのかもしれません。発掘された鉄剣に名前が刻まれていたことで実在が確実になった雄略天皇のように、せめて音で「ヒミコ」と読めるような何かが出土でもしない限り、到底決着がつく話とも思えませんし、九州説も近畿説も、そろそろ卑弥呼に固執するのはもう止めた方がいいんじゃないか、と思ったりもします。まあ所詮素人の戯言ですけれどね。
さて、私はというと、古代史は大好きなのですが、実のところ余り興味が無い、というか、何故に卑弥呼なの? という気がどうしてもぬぐえないでいます。そもそも卑弥呼という名前自体、魏王朝の誰かが勝手に漢字を当てはめただけであって、我が国でつけられたり呼ばれたりしたものではありませんし、当時の日本と中国との交流がどの程度あったのかは推測の域を出ませんが、列島の隅々に住まいしていた日本人のうち、中国と関係を持っていたのは極わずかなものでしょう。そんな特殊な一事例を持って、まるで我が国の古代史を代表する人物であるかのごとく扱うということに、どうしても抵抗があるのです。その当時の日本人が、魏志倭人伝にしか痕跡を残していない、という事を考慮したとしても、何でもかんでもその当時と目される出土物を卑弥呼に関連付けて語る必要が本当にあるのか、卑弥呼に関連付けることが本当に正しい古代史の理解に繋がるのか、というのが素朴な疑問としてあります。そもそも中国の歴史書に出てくる倭国という国が本当にこの列島に実在していたのか、など、疑い出したらきりが無いように思えるのです。
卑弥呼、もしくはそれを連想させそうな名前が日本書紀にも古事記にも伝えられていないというのを考えると、実は奈良の古代史とは何の関係も無く、中国にごく間近な九州などの地方集団の長の一人、ということであったのかもしれません。発掘された鉄剣に名前が刻まれていたことで実在が確実になった雄略天皇のように、せめて音で「ヒミコ」と読めるような何かが出土でもしない限り、到底決着がつく話とも思えませんし、九州説も近畿説も、そろそろ卑弥呼に固執するのはもう止めた方がいいんじゃないか、と思ったりもします。まあ所詮素人の戯言ですけれどね。