今日は仕事の合間に、この間秋に訪れた際に行きそびれた、鹿児島市立美術館に足を運びました。
常設展観覧が200円と随分リーズナブルな美術館ですが、東郷青児などの鹿児島に縁の深い芸術家を始め、内外の作品が集められて、定期的に入れ替えながら公開されています。そのために一回に見る事のできる点数は少ないのですが、一つ一つじっくり鑑賞できるのがありがたいです。絵と立ち位置も近く、その気になれば容易に触れることもできます。ガラスケース越しではありますが。
それでも、ほとんど額を擦り付けるように近くまで寄って絵を観ると、油絵とはなんと面白いものなのか、と改めて感じます。例えば展示してあったモネの『睡蓮』。離れて見ると、私には曖昧模糊とした一種幻想的な風景に見えるのですが、近づいて見ると当たり前ですが異なる色の絵の具が幾つも重層しているのがわかります。載せられた順番も解る訳ですが、その部分の一番最後の一筆がどうして必要だったのか、ないとどうなるのか、などと考えるとなかなか楽しいものがあります。レベルはもちろん比べること自体どうかしている訳ですが、自分で絵を描いている時に常に悩むのが、どこで描くのを止めて仕上げとするか、です。昔の大家も今の有名無名の芸術家達も仕上げの最後をどう決めるのか、実に興味があります。
吉井淳二の『北国の漁婦』でも、どこかの漁村のおばさんが目の前に無造作に並べているタイやサバが、離れて見ると実に写実的でテカリ具合などまるで実物を見ているかのようなのですが、近づくとたちまち複数の油絵の具が雑にさえ感じる載せられ方で重なりあっているだけに見えます。どこでそのように見える形と判断して描くのを止めるのか、実に不思議です。
そんな事をつらつら考えながら見ているうちに、いつの間にか時間が過ぎてしまいました。
またいずれ鹿児島には来ることになるでしょう。その時には是非もう一度訪れて、入れ替えられた別の絵を観てみたいと思います。
常設展観覧が200円と随分リーズナブルな美術館ですが、東郷青児などの鹿児島に縁の深い芸術家を始め、内外の作品が集められて、定期的に入れ替えながら公開されています。そのために一回に見る事のできる点数は少ないのですが、一つ一つじっくり鑑賞できるのがありがたいです。絵と立ち位置も近く、その気になれば容易に触れることもできます。ガラスケース越しではありますが。
それでも、ほとんど額を擦り付けるように近くまで寄って絵を観ると、油絵とはなんと面白いものなのか、と改めて感じます。例えば展示してあったモネの『睡蓮』。離れて見ると、私には曖昧模糊とした一種幻想的な風景に見えるのですが、近づいて見ると当たり前ですが異なる色の絵の具が幾つも重層しているのがわかります。載せられた順番も解る訳ですが、その部分の一番最後の一筆がどうして必要だったのか、ないとどうなるのか、などと考えるとなかなか楽しいものがあります。レベルはもちろん比べること自体どうかしている訳ですが、自分で絵を描いている時に常に悩むのが、どこで描くのを止めて仕上げとするか、です。昔の大家も今の有名無名の芸術家達も仕上げの最後をどう決めるのか、実に興味があります。
吉井淳二の『北国の漁婦』でも、どこかの漁村のおばさんが目の前に無造作に並べているタイやサバが、離れて見ると実に写実的でテカリ具合などまるで実物を見ているかのようなのですが、近づくとたちまち複数の油絵の具が雑にさえ感じる載せられ方で重なりあっているだけに見えます。どこでそのように見える形と判断して描くのを止めるのか、実に不思議です。
そんな事をつらつら考えながら見ているうちに、いつの間にか時間が過ぎてしまいました。
またいずれ鹿児島には来ることになるでしょう。その時には是非もう一度訪れて、入れ替えられた別の絵を観てみたいと思います。