かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

もんじゅ修理完了して元通りになったそうですが、それならいっそ1から全て考え直してみてはどうでしょう?

2012-08-09 21:47:59 | Weblog
 今日は長崎原爆の日、実のところ広島も忘れていた、というか日の感覚がずれていて、気づいた時にはもう過ぎていた、と。今日はたまたま職場で新聞見る機会があり、そこに書いてあったのでなんとか思い出すことができました。なんのかんの言って既に68年も昔のこと。人生50年だった昔なら、原爆投下の瞬間に生まれた子だって寿命で鬼籍に入っていても不思議でない位の時間が流れたわけで、原爆に限らず、先の大戦をくぐり抜けた方々はかなりの少数になっているはずです。我が父も戦争そのものは経験してないですが満州からの引き上げやその後の戦後復興期に辛酸を舐める位はしてきている世代。さすがに目も衰え体のあちこちに何かと不具合が生じつつあるようですが、それでもまだまだ頭脳明晰で身体もシャンとして、実年齢からは信じがたいほど若々しい姿を保っています。激動の戦後を苦労をしてきたヒトというのは、要するにそういう時代を生き残ってきた人達、ということで、総じて頑健で強運なヒトが揃っていたりするんじゃないか、と思わずにはいられません。振り返ってその遺伝子を受け継いでいるはずの自分はどうかというと、ン十年後父と同じ年令になった時にあれくらい元気かというと正直心もとないです。それでも、半世紀前の同年代からしたら私も相当若々しく見えるはずではあり、後は医療技術の進化と遺伝子工学やアンドロイド技術の発展に期待して、なんとかなるんじゃないか、と楽観的に思うところもあります。

 さて、そんな中、高速増殖炉もんじゅの修理が終わり、故障前と同じように動くことが確認されたのだそうです。まあ壊れたままでどうしようもない、というよりはいいことだろうとは思いますが、さすがに現状ではもんじゅを存続させる意味はあるのか? という疑問が私のような原発一応とりあえず容認なヒトでも浮かんできます。どうしてもやるんなら一から設計をやり直して、ちょっとした事で故障するような精緻な芸術品まがいのものを作るんじゃなくて、もっとラフな条件にも耐えうる安全性の高い工業製品と呼べるものを作ってみるべきではないのでしょうか。いくら性能が良くてもこうも稼働率が低くては実験だって満足にできないではないですか。もんじゅ完成から既に20年以上経過して、当時は最先端だったかもしれないいろいろな技術が今や陳腐化していたりしないのか、それで実験を続けて本当に意味があるのか、高速増殖炉の必要性の是非は政治家に任せて、純粋に技術的な視点からのもんじゅの必要性あるいは不要性について、研究者、技術者の忌憚ない意見を聞いてみたいものです。

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