イスラム国による拉致殺害予告、ついに時間は過ぎましたが、今のところ新しい展開はないようです。これから一体どうなるのか、素人には知る由もないことでは有りますが、叶うことなら生きて帰って欲しいとは思います。この件では、身代金の2億ドルを巡って様々な言説が飛び交っておりますが、大体において、イスラム国に誠意を見せよと何らかの形で払えという人々と、自己責任を看板にテロには屈せず一切拒否、という人々に色分けされるみたいです。まあ見事なまでに左側と中~右と、まるで阪神甲子園球場の虎の応援団みたいな有り様になっておりますが、そんな戯画的な一面はともかくとして、オンラインメディア「現代ビジネス」編集長 瀬尾傑氏の言う、「簡単に自己責任だというのではなく、冷静に考えるべき」という指摘には少し考えさせられました。瀬尾氏いわく、「戦争報道が、ジャーナリズムの中心」、「米軍の嘘、現地民の声など、現地に行かないとわからないことがたくさんある」、「ジャーナリズムにおいて、戦争取材は極めて重要な役割を果たしている」等々ですが、なるほど、我々情報の消費者は彼らの決死の行動によって貴重な情報を入手することができているわけで、政府の注意を無視して勝手に行ったならどうなろうが自己責任だ、という論調に対しては、一定の反論にはなっているような気がします。ただ、これらの言葉をみて思ったのは、なるほど、ジャーナリストが強烈な報道マン魂を燃やして献身的な取材をなしたのは間違いないのでしょう、でも、こちらから「死んでくれ」とお願いしたわけではないですし、そうやって死と隣合わせになりに行く際の使命感はその人個人のものであって、いってしまえば自己満足、そんなものを錦の御旗と掲げて平和な世界に安住する人々を論難するのは少々図に乗りすぎているのではなかろうか。いやいや、ご本人はちっともそんな上から目線ではなくて、「自己責任」の4文字で単純に切り捨てるのではなく、戦場という極限状況を取材する報道マンの事をもう少し理解してくれ、という位のものなのではなかろうか、と思わないでもないですが、それでも、自己責任論とそれとはちょっと違う気がします。私はそんな報道マン魂は偉いと思いますし、その行動力や素晴らしい業績には尊敬もします。そのために命を落とされたとしたらそれは仕事に殉じられたわけで、大いに悼みましょう。でも、その死の理由を考えると、それはやはり自己責任ではないでしょうか。これは別に戦場報道にかぎらず、モータースポーツの世界とか他の分野でも当たり前にある話で、そのヒトが死んだとしたらそれは自分の責任において死んだのであって、逆にそうでないとしたほうがそのヒトを侮辱することになるのではなかろうか、とも思います。
もし不幸にして今回この2人が亡くなることになったとしたら、せめて自分の心の内の熱いものに殉じて逝ったと信じたいです。