川崎市で痛ましい事件が発生しました。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、身体的にも精神的にも深い傷を負った児童の皆さんが、その傷を癒せるようにと祈るばかりです。
児童の連れ去りや誘拐、無差別に人を殺すことを目的とした犯罪に児童が巻き込まれるなどしたとき、メディアなどでは子どもを守るためとして通学路の安全確保ということや、犯人の異常性という観点で事件を取り上げることが多いように思います。そのような視点は必要とは思いますが、今回の事件で改めて思うのは、人の心がどのように形づくられるのか、傷を受けたときにどのような影響を受けるのか、その点を傷を受ける立場から考え、そこから社会の仕組みや政策を考えることの必要性であったり、自分たちも関わりながら社会として見守る目をつくることの意義を考えることだと思います。
そして、今回の事例が、現在の社会の特異点のような事案として考えられるのではなく、過去に遡っても同様の事案が見られる事案と考える事が必要ではないかと思います。ただ、社会の変化の中で、ブレーキの役割となる社会の仕組みが弱る一方で、インターネットをはじめとした各種情報手段の広がりによって、アクセルとなってしまう社会の仕組みが増えてしまい、混沌とした社会状況が深まってしまっていると考えることも必要ではないでしょうか。
傷について考えると、傷に対する耐性のようなものは人それぞれで、ある人には深く傷つくことでも、ある人にとっては些細に感じる場合もあるし、一度に大きく深く傷つくこともあれば、少しずつ時間をかけて何度も繰り返されながら深く傷つくこともある。その傷からどう立ち直るかについても、他の誰かに傷の処置をきちんとしてもらいながらの場合もあれば、放置されて、治るどころかよりハンデを負うような状況になってしまう場合もあるでしょう。大切なことは、児童虐待などについて重大な課題に目を向けるばかりではなく、軽度な事例についても考えていくことだと思います。
身体の場合であれば、傷が癒えるとともに、それがなんらかの形で痕跡として残っていたりすることで、他者からも気づくことができたりするものの、精神的な傷は、傷を負った人の認知や行動に大きな影響を与えるものの、はたして本当に癒えているのか、どのような形になっているのかは気付きにくいものと考えられます。この精神的な傷が個人に与える影響によって、社会から逸脱的であったり、他者に攻撃的であったり、自己破壊的な考えや行動をとることにつながるのであれば、いろいろな社会問題や犯罪の抑制を考えたとき、精神的な傷を社会として癒す、支える考えに力を入れていくことが必要ではないでしょうか。また、自分で癒す力を増せるように、人と人とのつながりを多くしていく取り組みも大切だと思います。そのためには、幼少期から中学生くらいまでの間で、子どもたちを社会のセーフティネットで支える政策が重要だと思います。
また、どのように身近な地域社会で暮らし、どのような関わりを持つかと言う点も見直されて良いのではないかと思います。見守り活動を行うために、誰かの力が必要になると言う状況ではなく、まちに人の気配があり動きがある、それが地域の見守る目になっているという状況があることが、子どもだけではなく大人にも大切ではないでしょうか。それは地域共生社会の要素であるのではないかと思います。
地域共生社会のような形で、自分たちの暮らす身近な地域社会をつくりあげたり、そこに関わっていくためには、私たちも考え方を少し見直すことが求められるかもしれません。
少し前になりますが、NHKの「事件の涙 そこに寄り添う人がいれば〜清輝くんいじめ自殺と家族〜」を視聴しました。自殺された清輝さんのお兄さんも自殺してしまっていたということ、弟さんは家族から離れて暮らすことになっていたということを知り、やり切れない思いを感じました。また、それらとお父さんと弟さんの今を取り上げながら話が進みましたが、そこからも考えることがありました。
また、土曜日にはドラマ「デジタルタトゥー」で、主人公の娘がネットで醜聞を広められたのは、小学校のときに、自分がいじめの発端となった相手に憎まれたからということが、話の筋の中にありましたが、デフォルメされたものとはいえ、こちらも考えるところがありました。
糾弾するような気持ちからではなく、それらの番組を通じて考えることは、いじめに関わった人たちは、どのような思いで、いま暮らしているのだろうかと言うことです。過去の記憶として、奥深くにしまいこまれているのでしょうか。それとも、いじめというものに悔恨や憤りを持って、いじめがない世の中にするべきと思っているのでしょうか。いじめについては、児童・生徒の問題だけと思われがちですが、大人にもアンケートをとって考えてみても良いように思います。
また、いじめを考えるときに、いじめを受ける本人だけでなく、家族も含めて、その人たちの人生に影響を与えてしまう権利は、誰にも認められないものだと、強く伝えることも大切だと思います。そして、影響は程度の差があるとはいえ、なんらかの形でいじめを受けた人に存在していると思います。
いじめに負けない心を育てることも大切でしょうが、心がいじめに耐えられなくなることがあることを前提にすべきです。人の心は、そもそも弱くて脆いものだと考えるべきだと思います。耐えきれなくなったときに、周囲はどのように支えるのか、少しでも回復できるようにするためにはどうすればいいのか、保護者と学校との間だけで考えるのではなく、社会として考えることなのでしょう。
なによりも、大人が本当にいじめはダメだと自分の意識の中に持ち、行動や言動にそれが出てくるようになれば、それはワクチンのように子供たちに伝わり、いじめの状況を変えていくことになると思います。