先週の日曜日、福岡市美術館で開催中の『ゴッホ展〜響き合う魂 へレーネとフィンセント』を観に行ってきました。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、ゴッホの作品に深い精神性を感じとり、20年間にわたってその作品270点を収集した女性。ただコレクションするだけではなく、それらを後世に伝えるため、1938年クレラー=ミュラー美術館を開館しました。
ゴッホ展のパンフレット、おもて面は『夜のプロヴァンスの田舎道』。
うら面は『黄色い家』です。
この展覧会では、画家ゴッホを世に知らしめたヘレーネの足跡を辿りながら、そのコレクションを次の4章に区分して展示しています。
ゴッホは27歳の時、画家として生きていくことを決意し、故郷のオランダで数多くの素描を描きました。画家としての修行時代と言っていいと思います。その後、油彩を描き始めたゴッホは、パリに移り住んで新進気鋭の画家たちとの交流を深めていきました。この頃描いたのが、『レストランの内部』(右上)です。またこの時期、多くの自画像を残しています。(写真はパンフレットから)
1888年2月、ゴーギャンの勧めに従ってアルルに拠点を移したゴッホは、南仏の明るい空の青と、燃えるように鮮やかな太陽の色彩である黄色の組み合わせに魅了されました。その頃の作品が『種を蒔く人』(左上)や『アルルの跳ね橋』、一連の『ひまわり』、『夜のカフェテラス』、『ローヌ川の星月夜』、『黄色い家』(上の写真 左下)などです。精力的に南仏の野や山を歩き回って風景を描いたこの頃は、ゴッホにとって最も充実した時代だったのではないかと思います。
しかし、その幸せな時間は長くは続きませんでした。その年の10月、遅れてアルルにやって来たゴーギャンとの仲が次第に険悪となり、クリスマスイブには自分の耳を切り落として共同生活は破綻。精神的に追い詰められたゴッホは、サン=レミの療養院に入院します。これ以降、『星月夜』や『夜のプロヴァンスの田舎道』(左下)、『悲しむ老人(永遠の門にて)』(上の写真 右下)など、ゴッホの苦悩、葛藤や不安を描写したかののような作品が生み出されました。そして1890年7月、拳銃で自殺を図り、37年の生涯を閉じたゴッホ。画家を志してから、わずか10年しか経っていませんでした。
ニューヨーク出身のシンガーソングライター、Don McLeanがフィンセント・ファン・ゴッホにささげた曲、”Vincent” です。しみじみとゴッホの世界に浸れますよ〜♪
会場の外で、立体複製画の展示会が行われていました。3D技術を駆使して、絵の具の盛り上がり、筆のタッチ、キャンバスの生地目などを高精細に再現した、アルゴグラフと呼ばれる複製画です。これらはすべて、所蔵する美術館の承諾を得て制作されており、その売上の一部は作品の維持管理や修復に充てられています。
展示されていた複製画(写真撮影可)のいくつかを、年代順に並べてみました。
『アルルの跳ね橋』
ゴッホが南仏アルルに移り住んだ初期に描かれた作品。ゴッホはこの跳ね橋を何枚も描いています。故郷のオランダに似た風景を懐かしんでいたのかもしれません。
残念ながらこの絵(クレラー=ミュラー美術館が所蔵する原画)は、今回の展覧会には出展されいていませんでした。絵の劣化が進み輸送に伴う損傷リスクが大きいため、館外への搬出が中止されたのだそうです。
『糸杉に囲まれた果樹園』
周囲を糸杉に囲まれた、桃と洋梨の花が咲き誇る果樹園。麗らかなアルルの春を描いた作品です。
『種まく人』
農民を描き続けた画家ミレーに心酔していたゴッホは、働く農民の姿をよく描きました。
『黄色い家』
ゴッホは、画家たちが集って共同制作することを夢みて、多くの画家に声をかけましたが、誘いに応じてアルルにやってきたのはゴーギャンだけでした。ゴッホが借りていたのは、手前右側の緑色の扉や窓のある小さな家です。
『夜のカフェテラス』
アルルの旧市街にあるカフェテラスの情景を描いた作品。モデルとなったカフェは、現在もカフェ・ヴァン・ゴッホという名で営業しています。
これが、そのカフェ・ヴァン・ゴッホ。ゴッホがイーゼルを立てたプラス・デュ・フォルム広場の一角には、イーゼルのモニュメントが置かれています。
『夜のカフェテラス』も、『アルルの跳ね橋』と同じ理由で出展されませんでした。つまり、これからはオランダに行かなければ、これらの絵を見ることができないという訳です。9年前の春、クレラー=ミュラー美術館で本物を観ることができたのは、今になってみれば貴重な経験だったんですね。そこで、思い切って複製画を注文することにしました。どちらにするか迷いましたが、結局『夜のカフェテラス』に決定。制作に2カ月くらいかかるそうです。
『夜のプロヴァンスの田舎道』
ゴッホ独特のうねるような夜空や瞬く星が印象的な一枚。ゴッホの晩年、1890年5月ごろ描かれた作品です。『糸杉と星の見える道』とも呼ばれます。
主にジオラマ用の人形と日用品をモチーフに撮影し、「MINIATURE CALENDAR」を制作している熊本出身のミニチュア写真家・見立て作家、田中達也さんのコーナー。
ブラシを麦畑、青い円錐形(筆の穂先でしょうか)を糸杉に見立てていますね。その手前には、イーゼルを前に『夜のプロヴァンスの田舎道』を描くゴッホ。ブログの写真では鮮明ではありませんが、キャンバスには精彩な絵が描かれていますよ~♪
この日行われた"アクロス・ミュージアムコンサート in 福岡市美術館" まで時間があったので、美術館2階にあるレストラン プルヌス(PRUNUS)でひと休み。市美術館2階にはこのプルヌス、1階にはカフェ アクアム(AQUAM)がありますが、いずれもホテルニューオータニ博多が手掛けているそうです。
甘酒コレクション"OHORI Girls" は、「ストロベリーのフレーバーとココナッツの余韻が楽しめる甘酒スムージー」とのことでした。私は紅茶でほっと一息つきました。
ミュージアムコンサートは、田中美江さん(ピアノ)、田中雅弘さん(チェロ)、塩貝みつるさん(ヴァイオリン)のアンサンブルでした。
ミュージアムショップで買ったクリアファイル(A4)や絵葉書。
点描を取り入れた明るく繊細な『レストランの内部』は妻の好きな絵で、わが家のミニチュア・イーゼルにもよく登場します (^-^)ゞ このレストランの壁に掛けられた絵は、ゴッホの作品だそうです。
右上の絵葉書は、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が収蔵する『サント=マリー=ド=ラ=メールの海景』。サント=マリー=ド=ラ=メールという町の海岸で描いた地中海です。青を基調に様々に変化する波の色や、沖合に浮かぶ3艘のヨットが印象的な一枚。ゴッホ美術館には行ったことがありませんが、ゴッホ展のおかげで原画に接することができました。
ゴッホの作品で生前に売れたのは、『赤い葡萄畑』の一枚だけだったと言われています。実際にはそこまでのことはなかったようですが、画家として恵まれた境遇になかったことは間違いないでしょう。そんなゴッホの作品に光をあてたのが、ヘレーネ・クレラー=ミュラーでした。彼女は、実業家で資産家の夫 アントンの理解と支援を得て、ゴッホの作品およそ270点を収集しました。これは個人のコレクターとしては世界最大規模です。
この他にも、彼女の審美眼に従って集められた作品は、総数11,000点に及びます。ヘレーネとアントンは、これらのコレクション全てとミュラー家が所有する広大な土地を、美術館を開設するという条件で国に寄付しました。これが現在のデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園とクレラー=ミュラー美術館です。
他のゴッホの作品の多くは、ゴッホの死後、弟テオの下に残され、ゴッホの後を追うようにテオが亡くなった後は、妻ヨーや子供ウィレムに引き継がれました。テオとヨー夫妻の没後、その子ウィレムは、ゴッホの作品がまとまった形で保存されることを希望し、アムステルダムのゴッホ美術館に永久寄託しました。
そのような事情から、ゴッホの作品の多くはこれら二つの国立美術館に収蔵されています。ゴッホが生前、世に認められていなかったことが、結果として作品の散逸を防ぐことに繋がったと言えるかもしれません。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーは、ゴッホの作品に深い精神性を感じとり、20年間にわたってその作品270点を収集した女性。ただコレクションするだけではなく、それらを後世に伝えるため、1938年クレラー=ミュラー美術館を開館しました。
ゴッホ展のパンフレット、おもて面は『夜のプロヴァンスの田舎道』。
うら面は『黄色い家』です。
この展覧会では、画家ゴッホを世に知らしめたヘレーネの足跡を辿りながら、そのコレクションを次の4章に区分して展示しています。
1.芸術に魅せられて(ヘレーネ・クレラー=ミュラー)
2.ヘレーネの愛した芸術家たち
3.ファン・ゴッホを収集する
3-1.素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代
3-2.画家ファン・ゴッホ、オランダ時代
3-3.画家ファン・ゴッホ、フランス時代
3-3-1.パリ
3-3-2.アルル
3-3-3.サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ
4.ファン・ゴッホ美術館(ゴッホ家コレクション)
2.ヘレーネの愛した芸術家たち
3.ファン・ゴッホを収集する
3-1.素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代
3-2.画家ファン・ゴッホ、オランダ時代
3-3.画家ファン・ゴッホ、フランス時代
3-3-1.パリ
3-3-2.アルル
3-3-3.サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ
4.ファン・ゴッホ美術館(ゴッホ家コレクション)
ゴッホは27歳の時、画家として生きていくことを決意し、故郷のオランダで数多くの素描を描きました。画家としての修行時代と言っていいと思います。その後、油彩を描き始めたゴッホは、パリに移り住んで新進気鋭の画家たちとの交流を深めていきました。この頃描いたのが、『レストランの内部』(右上)です。またこの時期、多くの自画像を残しています。(写真はパンフレットから)
1888年2月、ゴーギャンの勧めに従ってアルルに拠点を移したゴッホは、南仏の明るい空の青と、燃えるように鮮やかな太陽の色彩である黄色の組み合わせに魅了されました。その頃の作品が『種を蒔く人』(左上)や『アルルの跳ね橋』、一連の『ひまわり』、『夜のカフェテラス』、『ローヌ川の星月夜』、『黄色い家』(上の写真 左下)などです。精力的に南仏の野や山を歩き回って風景を描いたこの頃は、ゴッホにとって最も充実した時代だったのではないかと思います。
しかし、その幸せな時間は長くは続きませんでした。その年の10月、遅れてアルルにやって来たゴーギャンとの仲が次第に険悪となり、クリスマスイブには自分の耳を切り落として共同生活は破綻。精神的に追い詰められたゴッホは、サン=レミの療養院に入院します。これ以降、『星月夜』や『夜のプロヴァンスの田舎道』(左下)、『悲しむ老人(永遠の門にて)』(上の写真 右下)など、ゴッホの苦悩、葛藤や不安を描写したかののような作品が生み出されました。そして1890年7月、拳銃で自殺を図り、37年の生涯を閉じたゴッホ。画家を志してから、わずか10年しか経っていませんでした。
ニューヨーク出身のシンガーソングライター、Don McLeanがフィンセント・ファン・ゴッホにささげた曲、”Vincent” です。しみじみとゴッホの世界に浸れますよ〜♪
🍀
会場の外で、立体複製画の展示会が行われていました。3D技術を駆使して、絵の具の盛り上がり、筆のタッチ、キャンバスの生地目などを高精細に再現した、アルゴグラフと呼ばれる複製画です。これらはすべて、所蔵する美術館の承諾を得て制作されており、その売上の一部は作品の維持管理や修復に充てられています。
展示されていた複製画(写真撮影可)のいくつかを、年代順に並べてみました。
『アルルの跳ね橋』
ゴッホが南仏アルルに移り住んだ初期に描かれた作品。ゴッホはこの跳ね橋を何枚も描いています。故郷のオランダに似た風景を懐かしんでいたのかもしれません。
残念ながらこの絵(クレラー=ミュラー美術館が所蔵する原画)は、今回の展覧会には出展されいていませんでした。絵の劣化が進み輸送に伴う損傷リスクが大きいため、館外への搬出が中止されたのだそうです。
『糸杉に囲まれた果樹園』
周囲を糸杉に囲まれた、桃と洋梨の花が咲き誇る果樹園。麗らかなアルルの春を描いた作品です。
『種まく人』
農民を描き続けた画家ミレーに心酔していたゴッホは、働く農民の姿をよく描きました。
『黄色い家』
ゴッホは、画家たちが集って共同制作することを夢みて、多くの画家に声をかけましたが、誘いに応じてアルルにやってきたのはゴーギャンだけでした。ゴッホが借りていたのは、手前右側の緑色の扉や窓のある小さな家です。
『夜のカフェテラス』
アルルの旧市街にあるカフェテラスの情景を描いた作品。モデルとなったカフェは、現在もカフェ・ヴァン・ゴッホという名で営業しています。
これが、そのカフェ・ヴァン・ゴッホ。ゴッホがイーゼルを立てたプラス・デュ・フォルム広場の一角には、イーゼルのモニュメントが置かれています。
『夜のカフェテラス』も、『アルルの跳ね橋』と同じ理由で出展されませんでした。つまり、これからはオランダに行かなければ、これらの絵を見ることができないという訳です。9年前の春、クレラー=ミュラー美術館で本物を観ることができたのは、今になってみれば貴重な経験だったんですね。そこで、思い切って複製画を注文することにしました。どちらにするか迷いましたが、結局『夜のカフェテラス』に決定。制作に2カ月くらいかかるそうです。
『夜のプロヴァンスの田舎道』
ゴッホ独特のうねるような夜空や瞬く星が印象的な一枚。ゴッホの晩年、1890年5月ごろ描かれた作品です。『糸杉と星の見える道』とも呼ばれます。
主にジオラマ用の人形と日用品をモチーフに撮影し、「MINIATURE CALENDAR」を制作している熊本出身のミニチュア写真家・見立て作家、田中達也さんのコーナー。
ブラシを麦畑、青い円錐形(筆の穂先でしょうか)を糸杉に見立てていますね。その手前には、イーゼルを前に『夜のプロヴァンスの田舎道』を描くゴッホ。ブログの写真では鮮明ではありませんが、キャンバスには精彩な絵が描かれていますよ~♪
この日行われた"アクロス・ミュージアムコンサート in 福岡市美術館" まで時間があったので、美術館2階にあるレストラン プルヌス(PRUNUS)でひと休み。市美術館2階にはこのプルヌス、1階にはカフェ アクアム(AQUAM)がありますが、いずれもホテルニューオータニ博多が手掛けているそうです。
甘酒コレクション"OHORI Girls" は、「ストロベリーのフレーバーとココナッツの余韻が楽しめる甘酒スムージー」とのことでした。私は紅茶でほっと一息つきました。
ミュージアムコンサートは、田中美江さん(ピアノ)、田中雅弘さん(チェロ)、塩貝みつるさん(ヴァイオリン)のアンサンブルでした。
☆ドビュッシー「月の光」
☆サン=サーンス「白鳥」
☆ラヴェル「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」
☆ドビュッシー「ゴリウォーグのケークウォーク」
☆マンシーニ「ひまわりのテーマ」<アンコール>
☆サン=サーンス「白鳥」
☆ラヴェル「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」
☆ドビュッシー「ゴリウォーグのケークウォーク」
☆マンシーニ「ひまわりのテーマ」<アンコール>
ミュージアムショップで買ったクリアファイル(A4)や絵葉書。
点描を取り入れた明るく繊細な『レストランの内部』は妻の好きな絵で、わが家のミニチュア・イーゼルにもよく登場します (^-^)ゞ このレストランの壁に掛けられた絵は、ゴッホの作品だそうです。
右上の絵葉書は、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が収蔵する『サント=マリー=ド=ラ=メールの海景』。サント=マリー=ド=ラ=メールという町の海岸で描いた地中海です。青を基調に様々に変化する波の色や、沖合に浮かぶ3艘のヨットが印象的な一枚。ゴッホ美術館には行ったことがありませんが、ゴッホ展のおかげで原画に接することができました。
ゴッホの作品で生前に売れたのは、『赤い葡萄畑』の一枚だけだったと言われています。実際にはそこまでのことはなかったようですが、画家として恵まれた境遇になかったことは間違いないでしょう。そんなゴッホの作品に光をあてたのが、ヘレーネ・クレラー=ミュラーでした。彼女は、実業家で資産家の夫 アントンの理解と支援を得て、ゴッホの作品およそ270点を収集しました。これは個人のコレクターとしては世界最大規模です。
この他にも、彼女の審美眼に従って集められた作品は、総数11,000点に及びます。ヘレーネとアントンは、これらのコレクション全てとミュラー家が所有する広大な土地を、美術館を開設するという条件で国に寄付しました。これが現在のデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園とクレラー=ミュラー美術館です。
他のゴッホの作品の多くは、ゴッホの死後、弟テオの下に残され、ゴッホの後を追うようにテオが亡くなった後は、妻ヨーや子供ウィレムに引き継がれました。テオとヨー夫妻の没後、その子ウィレムは、ゴッホの作品がまとまった形で保存されることを希望し、アムステルダムのゴッホ美術館に永久寄託しました。
そのような事情から、ゴッホの作品の多くはこれら二つの国立美術館に収蔵されています。ゴッホが生前、世に認められていなかったことが、結果として作品の散逸を防ぐことに繋がったと言えるかもしれません。