平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

花燃ゆ 第27回「妻のたたかい」~文という無力な女の名は捨てます

2015年07月06日 | 大河ドラマ・時代劇
 久坂(東出昌大)は最期に言う。
「しくじってばかりの人生だったが、四季があった。
 悲しむことはない。あとは皆が志を継いでくれる」

 やたら自分の死を意義あるものにし、美化しているけど、要するに久坂は「しくじった」のである。
 鷹司卿に裏切られることも予想できなかったし、薩摩との政争にも敗れた。
 好戦的な来島又兵衛(山下真司)を抑えることもできなかった。
 ただ、それだけ。
 結果、もたらしたものは<朝敵><長州征伐>。
 久坂は自分の状況判断が甘かったこと、政治力が足りなかったこと、至誠では人は動かないことを覚り、嘆くべきだった。
 自らの死を美化してはいけない。

 こう書いてしまうのも、〝久坂たちにも理がある〟ということがドラマとして描かれてこなかったから。
 作家としてはそのつもりだったのかもしれないが、印象として残ったのは、尊皇攘夷の拝外主義者、テロ集団としての久坂たち。
 久坂たちに〝理がある〟と視聴者に思わせるとしたら、過激なテロ集団としての自分たちを総括させるべきだった。
 久坂たちがやろうとしたこと。
 これはおそらく、幕府を倒し、帝を中心とする国家をつくり、国一丸となって攘夷をおこなうというものだったのだろう。
 だが、それは時期尚早だったし、薩摩のようなしたたかさはなかった。
 まあ、ドラマとしては、明治の世になって、「久坂たちのやろうとしたことは間違っていなかった」「志は貫かれた」「久坂の死は意味があった」と、文(井上真央)に後付けで言わせるんだろうけど。

 大奥編に関しては、違和感と不安。
「文という無力な女の名は捨てます」
 文が大奥の中でのし上がり、政治力・発言力を持つみたいな話になれば面白くなるのだろうが、果たしてどうか?
 今まで文さん、握り飯をつくってるイメージしかないからな~、いきなりデキる女になってしまうのも……。
 というか、27話でこの心境というのは遅すぎ。
 文が主人公になっていない良い例だ。

コメント (2)
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