平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

坂の上の雲 第2話「青雲」

2009年12月08日 | 大河ドラマ・時代劇
 寄席に行き、つまらない芸には文句を言う。
 熱海には徒歩で無銭旅行。
 流行の本やスポーツに一生懸命になる。
 まさに<青春>ですね。
 ともかく毎日が楽しくてしょうがない。
 徒歩で無銭旅行とか、オトナの目から見ると、無意味でバカなことに懸命になれたりする。
 「人生をいかに生きるか」みたいなことから完全な自由な状態、今のこの瞬間を楽しみ未来のことなどあまり考えないのが<青春>。

 しかし、青春にも終わりが来る。
 今回、真之(本木雅弘)が大学予備門をやめて海軍を選んだのは、ある意味青春の終わり。
 「人生をいかに生きるか」を考え始めたのだ。
 それは自分を限定すること。
 たとえば真之は<今までは誰とでも喧嘩していた>が、今は「敵国としか喧嘩しない」と子規の妹・律(菅野美穂)に語る。
 これは自分の限定。
 服装もそう。
 今までは自由に着たい物を着ていたが、今は軍服を着なければならない。
 そして軍服がそうさせるのか、軍服を着る本人がそうなっていくのかわからないが、次第に軍服の似合う軍人になっていく。
 オトナになるとは、自分の持っていたあらゆる可能性を捨てて、何かひとつを選んでいくことなのだ。
 それは子規(香川照之)が<俳句>を選んだのもそう。子規の場合はまだちょっとフラフラしていますが。

 現代はある意味、あまりにも自由な社会。
 あらゆる選択肢が若者の前に用意されているが、逆に自由すぎてひとつを選べず、なかなかオトナになれないのが現状。
 真之のようにひとつを選べる才覚があればいいのですが、そういう才覚というか自分を知る能力がないのも現代の若者。
 結局、横一列、みんなと同じように生きていく。
 かく言う僕もそうですが。

 年配の人が若者の服装の乱れを指摘するのもある意味、現代を反映していますね。
 軍服をきっちり着るから軍人になれる。だらなく着ていたらたちまち怒られ、軍人失格。
 ところが現代の高校生。
 ルーズに制服を着こなしている。
 僕の偏見でちゃんとしている高校生もいるとは思いますが、これでは芯の通った本物の高校生にはなれない。
 こんなことを書くと僕も年寄りになったなぁと感じますが、まあ今回の軍服を着た真之の変わり様を見て、そんなことを思いました。
 そしてルーズさ、だらしなさの反動で、軍服を着ようとする若者が今後出て来るかもしれませんね。


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JIN -仁- 第9話 心意気を持っているか

2009年12月07日 | 大河ドラマ・時代劇
★今回は<心意気>の話でしたね。
 医者の心意気、火消しの心意気。
 それぞれの心意気を持って、火事と闘っている。
 「てめえらの持ち場、必死に守れ!」と新門辰五郎(中村敦夫)は言ったが、仁(大沢たかお)たちは医者の持ち場、辰五郎は火消しの持ち場を守って闘っている。
 そして辰五郎が医者の持ち場に入って来ようとすると、仁は「やめろ、患者に触るな! どうして助けられる命を助けようとしないんですか」抵抗する。
 この時、辰五郎が医者の持ち場に入ってきたのは、仁のことを信用していなかったから。
 でも、やがてお互いの心意気を理解し、信頼に変わり友情に。
 いい話でした。

 それにしても自分の心意気を持って闘っている人は素敵ですね。
 たとえそれが地味で目立たないどんな職業であっても。
 我々も自分の仕事に<心意気>を持って取り組みたいものです。

 また今回のメインは医者と火消しの心意気の対立でしたが、同時に花魁の心意気もさりげなく見せてくれました。
 身請けされて仁に会えなくなることを悲しむ野風(中谷美紀)に龍馬(内野聖陽)は「泣け」と言う。
 すると野風は「遊女の涙は嘘の涙。涙を流せば花魁がすたりんす」と意地を張る。
 あくまで<女>でなく<花魁>にこだわる野風。
 これぞ花魁の<心意気>です。

 医者と火消しの心意気を描いてくれただけでも満足なのに、花魁の心意気まで描いてくれる。
 この内容の濃さが「仁 -JIN-」という作品の面白さの理由なんですね。
 
★さて、今回はもうひとつ。
 今回は<モンタージュ>という作劇テクニックが至る所に使われていましたね。
 モンタージュとは<異質なものを掛け合わせることでプラスアルファの効果を生む映像手法>。

 まずひとつめは、野風が仁を口説いて抱き合うシーン。
 ここで医療器具を作る咲(綾瀬はるか)のシーンが挿入されます。
 これがモンタージュ。
 このふたつのシーンの掛け合わせることで、咲の気持ちも加わり野風と抱き合うシーンが深くなる。
 
 ふたつめのモンタージュは、仁が手術を行い、辰五郎が火消しをするシーンの掛け合わせ。
 これで闘っている男たちの姿がより克明になる。
 そして、このシーンではもうひとつ掛け合わせがなされていました。
 仁が手術を行い、辰五郎が火消しをするシーンに野風がひとり火事を見つめるシーンがインサート。
 このインサートで野風のせつなさがより深くなる。

 毎回作劇の上手さに舌を巻く「仁」ですが、今回は特に素晴らしかったと思います。


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坂の上の雲 第1話「少年の国」

2009年12月06日 | 大河ドラマ・時代劇
★司馬遼太郎さんの描く人物は皆さわやかだ。
 だからこの作品のもうひとつの主人公である<明治>という時代もさわやか。
 どんな時代かというと
・国家が誕生したばかりで子供のように希望に満ち溢れている時代。
・国家と個人が一致している時代。
 個人が働くこと=国のために役立つことである時代。 
 劇中では「一身の独立、即ち国の独立」という言葉で表現。
・学問をすれば立身出世がかなう時代。

 うらやましい時代である。
 未来への希望に満ち溢れている。
 これを国家が歳をとってしまった現在2009年と比べてみるとわかる。
 現代は
・国家も個人も迷走、迷走!どこに向かって走っているかわからない。
・誰も国家なんてものを信じていないし、自分の働き=国家のためではない。
・明治の人間が目指した政治家、官僚は腐敗の象徴。私利私欲。
・学問をしたって幸せにはなれない。学問の結果である一流企業、官庁、医者、弁護士にどれだけの魅力があるか。努力してもたかがしれている。

 明治の時代と比べて、現代は行き詰まり夢も希望もないのである。
 真之(本木雅弘)たちの様に、何の疑いもなく「坂の上の雲」を目指して坂を登れないのである。
 
★だが、ここで論旨をひっくり返すが、「明治の時代はよかった。うらやましい」と言ってすねるのは現代人の甘えでもある。
 好古(阿部寛)や高橋是清(西田敏行)、父・久敬(伊東四朗)を見よ。
 みんなそれぞれ自分というものを持っている。
 好古は茶碗一個を恥としない。
 「人生は一事をなすこと。自分の喧嘩に勝つことだけを考えていればいいのであって、身近なものは単純であるべきだ」と考えている。
 是清は「日本を紳士の国だと認めさせること」のために活動している。
 飄々とした父・久敬も天下国家を論じるわけではないが、「人は生計の道を講ずることに、先ず思案すべき」としっかりした人生訓を持っている。
 そんな彼らに比べて我々は……?
 一個の茶碗を恥とし、人生で何をなすべきか全然わかってない。
 腹が据わっておらず、迷走の繰り返しである。

 司馬さんがこの作品で描きたかったのは、現代と反面教師のこういうさわやかな人物と国家だったのだ。
 ただし、このさわやかさには危険が伴う。
 司馬さんもその危険を感じてこの作品の映像化は禁じていたそうだが、このさわやかな国家観が進んでいくと、戦前の国家主義にいく。
 ちょうど明治の国家が日清日露戦争に勝利し、中国侵攻、太平洋戦争に突っ走っていったように、「国家のために命を捨てよう」の主張になる。

 明治の時代は”個人=国家”であった。
 だが戦争の時代は”個人<国家”になる。
 ちなみに現代は”個人>国家”の時代。
 こうした現代を漫画家の小林よしのりさんなんかは憂えている。
 安倍元首相なんかも「美しい国」と言って”個人<国家”にしようとしてる。
 僕は小林さん、安倍元首相とは反対の立場だが。


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エディット・ピアフ 愛の讃歌

2009年12月04日 | 洋画
★天才というか物を表現する人というのは、感情の振幅が激しいんでしょうね。
 エディット・ピアフもそう。
 彼女は妻や子もあるボクサーのマルセルと愛し合うようになるが、愛し方が徹底している。
 ALL or NOTHING.程ほどということがない。
 マルセルが離婚できず結婚が難しいとなると酒浸りになる。
 彼がヨーロッパに遠征して会えないと、無理してでもアメリカに帰ってこいと言う。
 そして彼が死ぬとクスリに手を出す。

 しかし、こうした<徹底した愛し方>が彼女の歌う「愛の讃歌」を、人々の心を打つ素晴らしいものにする。
 何しろ愛の素晴らしさを歌うのだから、歌う自分も愛の歓びを心から感じていなければならない。それも尋常でないくらいに。
 歌はその他の芸術作品同様、内面の表現ですからね。
 心の奥底から搾り出すものでなくてはならない。
 ソウルというんでしょうか、そういったものがなければ、人の心を打つものにはならない。
 テクニックで上手く歌われる歌なんてつまらない。
 だから表現者は大きな感情の振幅を持たなければならないんでしょうね。

★この映画を見て思ったのはエディット・ピアフほど人生と歌がリンクした歌手はいないということ。
 まず彼女は自分が生まれ育った貧しい下町を歌う。
 下町の生活を知らなければ歌えない歌。
 次に先程述べた最愛のマルセルと知り合って「愛の讃歌」を歌う。
 愛に飢えた生涯を送ってきたピアフだから、その歓びは人の数十倍だ。
 そして、結果として愛に恵まれなかった自分の失意の人生をふり返って映画のラストで歌う歌。
 ピアフはクスリとアルコールで病気になり、ふらふらの中、人生の総決算としてこう歌う。

 ♪ わたしは何一つ後悔していない。
   わたしに過去は関係ない。
   またゼロからやり直せばいいの ♪

 何という強さだろう!
 死ぬ直前にインタビューを受けたピアフは穏やかにこう言う。
 「愛しなさい……」
 愛に恵まれなかった人生でありながら、なおも「愛しなさい……」と言える強さ。

 最後にピアフを演じたマリオン・コティヤールが見事!
 猫背でチョコチョコ歩く一見、小柄なおばさんだが、歌を歌わせると輝く。
 そのメリハリがすごい。
 愛するマルセルを見る時の輝く目は子供のように無邪気だし。
 大声でがなりたてるように話す姿も下町育ちのピアフそのもの。


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相棒 「鶏と牛刀」

2009年12月03日 | 推理・サスペンスドラマ
 年金保険庁の年金偽装。
 これらを隠蔽するために警察庁官房の小野田(岸部一徳)の所に頼みに行く年金保険庁の上の人間たち。
 小野田を始めとする社会の上の人間達というのは、このように持ちつ持たれつ、甘い汁を吸い、互いの傷を舐め合ってヌクヌクと生きているんですね。
 
 年金保険事務所の課長の柴田(三井善忠)もそう。
 課長職という力を使って、死んだ人間の年金着服。甘い汁を吸っている。

★でも、こういうのにはあまりなりたくないですね。
 結局、課長の柴田は暴力団と関わりを持ったあげく、着服を隠すために人まで殺してしまう。
 これは無惨な失敗の人生ですよ。
 年金保険庁の上の方もそう。
 いつ年金偽装の指示がバレるかと常に不安の中で生きるしかない。

 権力を持てば、権力を使っていろいろなことが出来る。
 金儲けだって、人を貶めることだって出来る。
 でもそれは両刃の剣。
 権力を正しく使おうと思っても、そこには甘い誘惑があり、今回のヤクザのように誘惑をほのめかす連中がいる。
 そして権力を不正に使えば、いつ罪に問われるかという不安に苛まれる。
 それって結構面倒くさい生き方。
 きれいな風景が不安できれいに見えなくなってしまう。
 まあ、それをイヤだと感じない人がどんどん上に上がっていくのでしょうが。

★現代は格差社会。
 <負け組>という言葉があり、<派遣切り>という現実があって、人は何とか上に行こうとするわけですが、上に行くのも、今回描かれた年金保険庁の上の人間たちのように実はしんどい。
 でも組織の中で上に行かなければ、殺された藤石(江藤大我)のようにトカゲの尻尾切りをされてしまう。
 あるいは藤石の婚約者・栗田亜由美(久遠さやか)は後半「正義」に目覚めましたが、多分彼女が歩んでいく人生は、いばらの道、結構きついものになるだろう。
 本当にこの世は生きにくい。

 その点で亜由美に三ヶ月の子供がいることは象徴的ですね。
 果たして生まれてきた子供は幸せに暮らしていけるのでしょうか?
 作家はそんな問いかけをしているようにも思います。


 
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髪結いの亭主

2009年12月02日 | 洋画
★若い頃はこの映画ほとんど理解出来なかった。
 どうしてマチルダは自殺したのか?
 作品の中で描かれるマチルダの自殺の理由はこう。
 <幸せの絶頂の中で死にたかったから>
 幸せの絶頂なのになぜ?
 でも最近僕も歳をとったせいか、見直してその理由が実感としてわかる。
 マチルダは不安だったのだ。
 <幸せの絶頂>ということはいずれ下り坂が来る。
 人の心は変わるもの。
 夫のアントワーヌの気持ちは自分から醒めてしまうかもしれない。
 あるいは夫の気持ちは変わらなくても、死が自分から夫を引き離してしまうかもしれない。
 そんなつらい現実を見たくなくて、マチルダは自殺した。幸せの絶頂の中で死にたかった。

 なるほど、究極の愛とはそんなものかもしれない。
 江戸時代の心中とも似ている。
 死ぬことによって愛は永遠になる。

★若い頃に理解出来なかったことは他にもあった。
 アントワーヌは髪結いのマチルダに初めて会ってすぐにプロポーズする。
 マチルダはそのプロポーズに時をおかずして了承する。
 ふたりが関わったのはマチルダがアントワーヌの髪を切ったわずかな時間。
 そんなわずかな時間でなぜ? お互いのことを十分に知らないのに?
 おまけに若いマチルダにしてみればアントワーヌはさえない中年親父。
 
 しかし、歳をとると何となくわかる。
 アントワーヌははっきり言って変態。髪結いマニアで巨乳、匂いフェチ。
 だからアントワーヌに理想の女性を見たのだ。
 一方マチルダは、その変態性に魅せられた。
 この人なら自分を身も心も愛してくれると感じたのだ。
 ふたりは変態性で結び合い、他の人とは交換できない抜群の相性を感じたのだ。

 <人間の愛の形とは複雑なもの>
 そのことが最近何となくわかる。
 人間、長く生きてみるものですね。
 人間や人生とは実に奥が深い。
 それを理解し楽しむのも生きるということ。


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内藤・亀田戦 いかに試合を支配するか

2009年12月01日 | スポーツ
 内藤・亀田戦があったので「坂の上の雲」は再放送を見ます。
 さて、その試合。
 巷間言われているように、亀田興毅の作戦勝ちですね。
 自分のファイトスタイルと12ラウンド維持するスタミナにこだわった内藤大介に対し、亀田は内藤を研究し作戦を立てた。
 その作戦とはカウンター攻撃。
 フェイントを含めて巧みに攻めてくる内藤に対し、亀田はガッチリガードを堅めてカウンターで反撃する。
 攻撃がそのガードを突破できれば、内藤の勝利だったろうが、亀田のガードの方が上回ったようだ。
 だから内藤はジリ貧。
 自分のスタイルにこだわったことと対策・作戦を立てたことで分かれた明暗。
 これはどちらが正解かはわからないが。
 対策・作戦に立てたことで自分の良さをなくしてしまうこともある。

 ターニングポイントは、これも巷間言われているように第二ラウンド。
 顔面に亀田のカウンターの左ストレートが炸裂!!
 これで内藤は鼻血。
 実力伯仲の場合は、こういう一発が効くんですね。
 鼻血でスタミナが奪われるだろうし、戦っている内藤自身は意識していないだろうが、集中力も欠いてしまう。
 また同じパンチを食らうのではないという怖さで、無意識に大きな一歩が踏み込めなくなってしまう。
 腫れ上がった顔ときれいな顔ではジャッジの心証も違うだろうし。

 面白い試合でした。
 それぞれのファイトスタイルが明確だし、過去の因縁もあり実にわかりやすい試合でもあった。
 まあ、内藤を応援していた僕からすると、最終ラウンド、内藤に一発逆転の凄みのあるKOパンチを放って欲しかった。
 そうすれば、この試合は<幻の右>みたいな形で歴史に残る名勝負になったはず。
 あれだけの試合を見せてもらっておいて贅沢だとは思うけれど。

 スポーツの勝敗を分けるのはお互いの体力・技量、心理戦、作戦なんですね。
 流れが変わるターニングポイントというのもある。
 そして作戦とは自分の方に流れを引き寄せるためのもの。
 流れを常に自分のものにして、試合を支配していた亀田の勝利は当たり前と言えば当たり前か?


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