福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

神仏一体資料、19

2020-01-19 | 護国仏教
・四国55番南光坊。いまは札所は南光坊ですが、真念「四国徧禮道指南」には「五十五番三嶋宮、本尊大通智勝佛」とあります。また御詠歌も「この所 見し間(三島)に夢の 覚めければ 別宮とても 同じ垂迹(ここの三島宮は大三島の大山祇神社の別宮ですが同じ功徳がある)」というもので完全に三島神社が主体です。南光坊はもと大三島大山祇神社の属坊として宮浦(大三島)に建てられたものですが、正治年間(1199~1201)に別宮大山祇神社の別当寺として8坊が移されたものの一つです。いまもすぐ隣に三島神社があります。「三島宮御鎮座本縁」に「七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。」とあります。


・57番、いまは栄福寺(本尊阿弥陀如来)ですが、真念「四国徧禮道指南」には「五十七番八幡宮本尊阿弥陀如来」とあります。澄禅「四国辺路日記」に「承応二年十月朔日(壬亥)、 寺を立て辰巳の方え往て、河を渡りて南の山に上る、 山頭に八幡宮在り、泰山寺より十八丁也、八幡宮、本地弥陀」とあります。
四国88所霊場会公式ホームページにも「貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。」
府頭山(八幡山)を目指して田圃道を歩み山麓からの急な参道を登ると正面は八幡宮で中から右へ折れて栄福寺の境内へ入ることになります。 縁起によれば、嵯峨大皇の勅願により弘法大師の開創。大師が瀬戸内海を巡錫し、内海の風波海難の平穏を祈って大護摩を修されていると、海上はたちまち穏やかになり、海中より阿弥陀如来を感得し、ご本尊として奉安した。本堂は八幡宮への参道を背にし、他の堂より一段高い所にある。本堂向かって右手に回廊があり、大師堂、薬師堂など諸堂がコの字型に結んでいる。
 本堂回廊には昭和八年に奉納されたイザリ車と松葉杖があると書かれています(が私はわかりませんでした。)奉納者の宮本武正さんは当時十五歳で、巡拝中にこの地で歩けるようになり、感謝のあまりイザリ車を奉納したといいます。

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