内藤湖南「日本文化の独立」より
「・・北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方である、醍醐、村上、一條、後三條でも皆宏才博覽で文學などもよく出來てゐられるが、後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります。この親房の正統記に書いてあることは、後宇多天皇の御遺告即ち今日あちらに陳列してある所の天皇御自身の御遺言の中に書かれてあることゝ非常によく一致して居ります。であれを拜見致しますと、後宇多天皇の御學問といふものは、單に天皇として知らせ給ふべきことを一と通り知らせ給ふばかりでなく、むしろそれには御滿足なさらないで、天子でおはせられながら、佛教の學問ならば高僧と同樣、普通の諸道の學問ならば諸道の學者同樣に、深く知らせ給ふべき御決心を以て研究せられたといふことが分ります、是はよほど注意すべきことだと思ひます。
さういふ風に非常に學問に御熱心な方で入らせられたのですが、斯ういふ風に天子が學問に御熱心であるといふことは、これは其時代の何かの方面に必ず影響を與へずにはおきませぬ。その影響をだんだんに考へて見ますると、一面においてはお子さんで入らせられる後醍醐天皇が、たとひ一時にもせよ兎に角日本の政治上の革新を立派になし遂げられたといふことに感化を及ぼして居るのであります。神皇正統記によると、後醍醐天皇の條に、後醍醐天皇も非常に宏才博覽でいらせられ、佛教の方の學問に就ては最初は父天皇たる後宇多天皇にお教を受け、さうして其上更に專門の高僧から許可まで受け給うたといふことが書いてあります。
其他にも影響は色々及んで居りますが、それはあとで申上げるとして、とにかくさういふ感化を各方面に與へてゐるのであります。それから一面には後宇多天皇のやうな御學問に御熱心なお方は、今言つた通り單に天子として學問せらるゝのみならず、殆ど御自分が學者同樣な覺悟で學問せられてゐるのでありますから、其學問の御造詣は自然に當時の普通の人々の考へるやうな程度に滿足せられずして、更に學問の根本に遡らうといふ意氣込があらせられたやうに考へられます。それで御遺告を見ましても、後宇多天皇は殊に密教に精通して居られた方ですが、其密教でも御自分におかれても弘法大師以來相傳の嚴重な方法によつて密教を研究され、又密教の正統を相續する僧侶には同樣に嚴重な規則に從はせるやう御遺言遊ばされたので、實に密教のピユリタニズムとも申し奉るべき固い掟を示されました。又御遺告のみならず、今日も陳列してありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。(「神皇正統記」に「第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原の僖子〈後に京極院と申す〉、左大臣実雄の女なり。甲戌の年即位、乙亥改元。 丙子の年、唐土の宋の幼帝徳祐二年に当たる。ことし、北狄の種、蒙古起こりて元国と云ひしが宋の国を滅ぼす〈金国起こりにしより宋は東南の杭州に移りて百五十年になれり。蒙古起こりて、先づ金国をあはせ、後に江を渡りて宋を攻めしが、ことし遂に滅ぼさる〉。辛巳の年〈弘安四年なり〉蒙古の軍多く船をそろへてわが国を侵す。筑紫にて大きに合戦あり。神明、威を表はし形を現じて防がれけり。大風にはかに起こりて数十万艘の賊船みな漂倒(ひょうとう)破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約(「宝祚(=皇位)の栄えまさんこと天地と極まりなかるべし」)の変らざることこれにて推し量るべし。
この天皇天下を治め給ふこと十三年。思ひの外にのがれ(=国政から離れ)ましまして十余年ありき。後二条の御門立ち給ひしかば、世をしらせ給ふ。遊義門院(=皇后)隠れまして、御歎きの余りにや、出家せさせ給ふ。前の大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて灌頂せさせ給ふ。めづらかにたふとき事に侍りき。その日は後醍醐の御門、中務の親王とて(=として)、王卿の座につかせ御座ます。(=当時を思い出すと私は)只今の心地ぞしはべる。後二条隠れさせ給ひしのち、いとど世を厭(いとは)せたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云ふ所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立ててぞ行なはせ給ひし。その後、後醍醐の御門位につきましまししかば、またしばらく世をしらせ給ひて、三とせばかりありて譲りましましき。 大方この君は中古よりこなたにはありがたき御事とぞ申し侍るべき。文学の方も後三条の後には、かほどの御才聞こえさせ給はざりしにや。寛平の御誡(=宇多)には、「帝皇の御学問は『群書治要』などにて足りぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふな」と見えたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をも知らせたまひ、政事も明らかにましまししかば、先の二代(=醍醐・村上)はことふりぬ(=言うまでもない)、つぎては寛弘・延久(=一条・後三条)をぞ賢王とも申すめる。
和漢の古事をしらせ給はねば、政道も明らかならず、皇威も軽くなる、定まれる理なり。『尚書』に尭・舜・禹の徳をほむるには「古へに若(した)がひ稽(かんが)ふ」と云ふ。傅説(ふえつ=殷の大臣)が殷の高宗を教へたるには「事古へを師とせずして、世に長き(=治世が長い)ことは説(えつ=傅説)が聞かざる所なり」とあり。
唐に仇士良(きゅうしりょう)とて、近習の宦者(=宦官)にて内権をとる、極めたる奸人(=悪人)なり。その党類に教へけるは「人主(=皇帝)に書を見せ奉るな。はかなき遊びたはぶれをして御心を乱るべし(=乱させておけ)。書を見てこの道を知りたまはば、わがともがらは失せぬべし」と云ひける、今もありぬべきことにや。
寛平の『群書治要』をさしての給ひける(=上の言葉は)、部狭(ぶせば=範囲が狭)きに似たり。但しこの書は唐太宗、時の名臣魏徴をして選ばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文を載せたり。全経の書(=儒学書)・三史(=「史記」「漢書」「後漢書」)等をぞ常の人は学ぶる。この書に載せたる諸子なんどはみる者少なし。ほとほと名をだに知らぬ類ひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまで学ばせ給ふことよしなかる(=必要がない)べきにや。
本経等を習はせましましそ(=だけを習わせろ)まではあるべからず。已(すで=上記に)に「雑文」とてあれば、経・史の御学問のうへに(=以外にさらに)この書(=『群書治要』)を御覧じて、諸子等の雑文までなくともの御心なり。
寛平はことにひろく学ばせ給ひければにや、周易の深き道をも愛成(ちかなり)と云ふ博士に受けさせ給ひき。延喜の御こと左右にあたはず(=当然のこと)。菅氏輔佐し奉られき。その後も紀納言(=紀長谷雄)・善相公(=三善清行)等の名儒ありしかば、文道の盛りなりしことも上古におよべりき。この御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申す人のはべる、浅ましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。 この君(=後宇多)は在位にても政事をしらせ給はず、また院にて(=後二条崩後)十余年閑居し給へりしかば、稽古に明らかに、諸道をしらせ給ふなるべし。御出家の後もねむごろに(=学問を)行なはせましましき。上皇の出家せさせ給ふことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・後深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病重くなりてぞせさせ給ひし。(後宇多のように)かやうにあまた聞こえさせ給ひしかど、戒律を具足し、始終欠くることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給ひしこといとありがたき御ことなり。 この御末に一統の運をひらかるる、有徳の余薫とぞ思ひ給ふる。元亨(げんこう)の末甲子の六月に五十八歳にて隠れましましき。」)