福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第二章

2013-11-02 | 諸経
すでに行っている、という、想起にしても、
いまだ行っていない、という、想像にしても、
過去や未来であり、行くという、現在ではない。
行くという現在の認識すら、実際の行為ではない。

手足が動いて、行くという行為になるとき、
手と足の動きは、現在の事実の中に含まれる。
手足の動きが、想起や想像を越えている場合は、
行くという行為は、行くという現実と同じである。

行くという行為、現在に集中しているとき、
過去を想起したり、未来を想像できなくなる。
確かに、行くという行為は、現在の事実である。
しかし、その瞬間を、言葉で表すことは出来ない。

行くという行為は、行くという現実である。
そう考えてしまうと、誤りと言わざる得ない。
というのも、行くという現実は、行為を忘れて、
現在に集中している時こそ、現象するものだから。

現実に重きを置くか、行為に重きを置くか。
どちらに捕らわれても、現実の行為ではない。
行くという行為に、行くという現実が現われて、
行くという現実には、行くという行為が含まれる。

元来、現実の行為は、ひとつのものである。
現実に分けたり、行為に分けたり、出来ない。
行為を認めないと、現実が行為にならなくなり、
現実を見とめないと、行為が現実にならなくなる。

行為をするものを、見とめようとしないと、
行為それそのものを、見とめられないものだ。
つまり、行為の主体が、現実として現れないと、
ひいては、行為の自体も、現実として現われない。

行くという認識と、行かないという認識は、
行く行かないの違いとして、同時に現われる。
どちらも、行くという行為そのものではないし、
このほかに、三つ目の認識が現われることはない。

認識しているだけで、行為になるだろうか。
行くという認識は、行くという行為ではない。
現実に生まれないで、認識が生まれるだろうか。
行くという認識は、行くという現実に拠っている。

行くという行為は、感覚的な認識に止まり、
行くという認識さえ、観念的な解釈に止まる。
行くという行為にせよ、行くという認識にせよ、
現実に現われないものは、幻想に止まるのである。

行為の認識を分けると、行為と認識になる。
行為にせよ、認識にせよ、単なる幻想である。
二つに分かれると、幻想の行為を認識していて、
二つに分かれないと、現実の行為が存在している。

過去の想起にしても、未来の想像にしても、
その中に、現実の行為が生まれることはない。
現実の行為は、現実の認識の中にも生まれない。
それゆえに、現実の行為の開始点を特定できない。

現実の行為が始まる前は、想起が出来ない。
現実の行為を終えた後では、想像が出来ない。
現実の行為は、そういう状況に現れるのであり、
過去の中にも現れないし、未来の中にも現れない。

行った事、行っていない事、行っている事。
過去の想起も、未来の想像も、現在の認識も、
独り立つものであるため、互いに替えられない。
これらが消え始めると、現実の行為が現れ始める。

行くという認識も、行かないという認識も、
固定的なものではなく、流動的なものである。
行くでもない、行かないでもない、認識を含め、
あらゆる認識は、現在の瞬間であり、動的である。

行くという認識は、現在の瞬間であるから、
前や後に固定されて、連続するものではない。
また、行くという認識は、現実の行為がないと、
この世に現れてくることは、絶対にないのである。

行くという認識が、行くという行為を生む。
そう考えていくのは、誤った考え方ではない。
これを、言い換えると、次のように考えられる。
即ち、行くという行為は、行くという認識を含む。

行くという認識が、行くという行為を生み、
行くという行為から、行くという認識が出る。
つまり、行くという認識と、行くという行為は、
どちらも、行くという現実であると、考えられる。

仮に、行くという認識と行くという行為が、
互いに入れ替わるものだと、考えてしまうと、
行くという認識は、現実を無視して動くだろう。
行くという行為さえ、現実を無視して動くだろう。

時に、統合したものとして、世界は現れて、
時には、分裂したものとして、世界は現れる。
その背景にある、根源的な実相を認めない限り、
一切のものが、認識できていないことを意味する。

現実の世界は、行くという現実が先行する。
現実が現われて、外の世界が変わるのであり、
現実が現れないで、内の世界に変ることはない。
即ち、具体的な現実は、抽象的な概念に先行する。

行くという行為が、行くという行為により、
行くという現実を、推し進めているのである。
現実の行為が、現実の行為を進ませるのである。
現実と行為の二つに分かれ、進ませる訳ではない。

現実の行為や、現実の世界や、現実の主体。
これらのものが、現在に先行することはない。
非現実の行為、非現実の世界、非現実の主体は、
もとより現実ではないのだから、言うまでもない。

現実の行為や、現実の世界、非現実の世界。
これらのものは、現在に連続することはない。
即ち、行ったこと、行くこと、行っていること、
これらは、概念の解釈に過ぎず、認識が出来ない。


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