今日5月2日は東大寺で聖武天皇祭の行われる日です。 聖武天皇は天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)56歳で崩御されています。
聖武天皇は緊迫する対外情勢のなか、日本国の強固な基盤を構築すべく「仏様に守られた国つくり」を進められた英邁な天皇でした。当時の情勢は今日の日本の置かれている状況と相当類似しています。その中で対外政策を強固にするとともに国の基盤たる「高い精神性」を仏教により構築されようとしたのです。
そして大仏建立は聖武天皇が日本の大仏様を世界の精神的中核とされるお考えであったとされます。いわば国立戒壇ならぬ「世界戒壇」を造ろうとされたのではないでしょうか。(後述、田中智学「日本国体の研究」)。大仏建立の典拠たる華厳経は「一即多多即一(宇宙のすべてが相互にすべてを含んでいる)」という、いまでも世界の物理学者を虜にする宇宙観を説いているのですから・・。この華厳経により大仏建立をされた天武天皇の意図は仏教の教えを日本に限定されようがなかったのかもしれません。
聖武天皇の時代、渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)には聖武天皇は行基菩薩の天照大神の御心なりとの進言にすすめられて東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出しています。続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『・・・・ここに天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。・・・もし更に人ありて一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ。國郡の司、この事によりて百姓を侵し擾し強ひて収めしむることなかれ。・・・」
とあります。庶民も全く平等に同じ仏性をもつ菩薩と考えて「一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ」と云っておられます。まさに全国民で「成就衆生浄佛国土」を実現し其の上で仏に守られた堅固な国作りをしようとしたことが伺えます。大仏開眼のおりには宇佐八幡の分霊を東大寺に遷し鎮守としています。これが神前読経、納経、仏舎利の神社奉納の濫觴とされます。
・またウキペヂアによれば「大仏開眼供養会には正倉院文書では内外の要人「1万数千人」が参列し開眼導師はインドの菩提僊那が担当し、大安寺の隆尊律師が講師を、元興寺の延福法師が読師を務めた。開眼の筆には長い緒が繋がれ、参列者はその緒を握って結縁した。その後、楽人によって日本、唐、高麗の楽舞が大仏に奉納された。開眼の際に使用した筆(天平宝物筆)や、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。」ということですが、これは田中智学の「日本国体の研究」によれば聖武天皇の世界の信仰を統一したいという深いお考えから来ているということです。「・・大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界的戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。・・」とあります。
吾々も世界戒壇の壮大な構想をお持ちであった聖武帝の末裔として「強弩の末魯縞に入る能わず」とならないようにそのお志だけでも再度思い起こし日々自戒する必要があります。
聖武天皇は緊迫する対外情勢のなか、日本国の強固な基盤を構築すべく「仏様に守られた国つくり」を進められた英邁な天皇でした。当時の情勢は今日の日本の置かれている状況と相当類似しています。その中で対外政策を強固にするとともに国の基盤たる「高い精神性」を仏教により構築されようとしたのです。
そして大仏建立は聖武天皇が日本の大仏様を世界の精神的中核とされるお考えであったとされます。いわば国立戒壇ならぬ「世界戒壇」を造ろうとされたのではないでしょうか。(後述、田中智学「日本国体の研究」)。大仏建立の典拠たる華厳経は「一即多多即一(宇宙のすべてが相互にすべてを含んでいる)」という、いまでも世界の物理学者を虜にする宇宙観を説いているのですから・・。この華厳経により大仏建立をされた天武天皇の意図は仏教の教えを日本に限定されようがなかったのかもしれません。
聖武天皇の時代、渤海と唐・新羅が対立関係にある中、渤海が山東半島の海上交通路を制圧したり日本に接近策をとったことで唐、新羅が日本を攻めるのではないかとおそれられていました。聖武天皇は 天平4年(734)には第9次遣唐使を任命するとともに、節度使に西辺の武備を固めさせ、四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命じています。
こういう極度に緊迫した対外関係の中、
・天平13年(741年)には国分寺建立の詔をだしています。「国分寺を建て金光明経を護持することにより四天王が国土を守ってくださるから」といっておられます。
国分寺建立の詔です。「朕、薄徳を以って忝くも重き任を承たまはる。政化弘まらず・・・経(金光明最勝王経)を案ふるにいわく『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し恭敬供養し、流通せしむときには、我等四王(四天王のこと)、つねにきたりて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめん。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて恒に歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸国をして各七重の塔一区を敬ひ造らしめ、あわせて金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕またべつに擬りて金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめむ。ねがわくは聖法の盛、天地とともに永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は兼ねて國華とせむ。かならず好き処を択びて実に久しく長かるべし。・・・僧寺は必ず廿僧有らしめよ。其の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。其の名は法華滅罪之寺とせよ。・・・」
・続いて天平16年(743年)には聖武天皇は行基菩薩の天照大神の御心なりとの進言にすすめられて東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出しています。続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『・・・・ここに天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。・・・もし更に人ありて一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ。國郡の司、この事によりて百姓を侵し擾し強ひて収めしむることなかれ。・・・」
とあります。庶民も全く平等に同じ仏性をもつ菩薩と考えて「一枝の草一把の土を持ちて像を助け造らむと情に願はば恣に聴せ」と云っておられます。まさに全国民で「成就衆生浄佛国土」を実現し其の上で仏に守られた堅固な国作りをしようとしたことが伺えます。大仏開眼のおりには宇佐八幡の分霊を東大寺に遷し鎮守としています。これが神前読経、納経、仏舎利の神社奉納の濫觴とされます。
・またウキペヂアによれば「大仏開眼供養会には正倉院文書では内外の要人「1万数千人」が参列し開眼導師はインドの菩提僊那が担当し、大安寺の隆尊律師が講師を、元興寺の延福法師が読師を務めた。開眼の筆には長い緒が繋がれ、参列者はその緒を握って結縁した。その後、楽人によって日本、唐、高麗の楽舞が大仏に奉納された。開眼の際に使用した筆(天平宝物筆)や、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。」ということですが、これは田中智学の「日本国体の研究」によれば聖武天皇の世界の信仰を統一したいという深いお考えから来ているということです。「・・大仏建立は単に御自身一個の信仰を表現せられたものではない。即ち之に因って海内の信仰を統一すべく、東大寺は国立の戒壇として国家的に建立されたものである。其れと同時に又一面には此挙によって世界文明の疎通を図ろうとの深い思召しがあったのである。(聖武天皇の)思召しというのは・・終には東大寺の戒壇を世界的戒壇にしようという広大な抱負をおもちになっていたのである。それゆえ大仏開眼の導師にはわざわざ印度から婆羅門僧といふ名僧を招待せられた。其の外支那からも高僧大徳がこの儀式に参列した。つまり印度、支那、日本三国の名僧大徳が立会って大仏の開眼供養を行ったといふ、これが実に世界的大戒壇も抱負である。・・」とあります。
吾々も世界戒壇の壮大な構想をお持ちであった聖武帝の末裔として「強弩の末魯縞に入る能わず」とならないようにそのお志だけでも再度思い起こし日々自戒する必要があります。