福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの第9回江戸三十三観音・東京十社巡拝の記録3/6

2016-01-27 | 開催報告/巡礼記録
3、午前11時25分。第3番参詣所である、芝・増上寺に着きます。ここは、芝大神宮の裏手になっていて、至近距離の所にあります。
江戸札所第21番 大本山 三縁山 広度院 増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)
本尊 阿弥陀如来
札所本尊 西向聖観世音菩薩 宗派 浄土宗
増上寺は、関東での正統念仏道場として、明徳4年(1393年)浄土宗第八祖、酉誉聖聡上人によって、当初、武蔵国豊島郷貝塚(千代田区紀尾井町)に創建されました。室町時代の開山から、戦国時代にかけて、増上寺は、浄土宗の東国の要として、発展してきました。安土桃山時代、徳川家康が、関東の地
を治めるようになってから、天正18年(1590年)、徳川家の菩提寺として選ばれ、家康は、当時の住職、源譽存応上人に深く帰依したことから、結びつきが深くなったと言われています。家康の江戸入府を受け、江戸城を拡張するため、慶長3年(1598年)、増上寺は、現在の港区芝に移転しました。江戸幕府が成立したあとには、家康の手厚い保護を受け、時運は、大隆盛へと向って行ったそうです。三解脱門、経蔵、大殿の建立始め、三大経蔵の寄進などが
相次ぎ、朝廷からは、存応上人へ、普光観智国師号の下賜と常紫衣の勅許がありました。そして、家康は、元和2年(1616年)増上寺で葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で没しました。国盗り、権力闘争、幾多の策略策謀をめぐらす日々、余程、強靭な心臓の持ち主だったのか。絶えずあったであろうストレスにもめげず、75歳まで、この時代に生きたことは、感嘆する思いです。
増上寺には、徳川二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶,十四代家茂の6人の将軍の墓所が設けられています。墓所には、各公の正室と側室の墓が設けられていますが、家茂の正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮も含まれています。墓所である徳川将軍家墓所は、戦前は、霊廟「御霊屋」と呼ばれ、厳粛、壮麗な霊廟が立ち並んでいたといいますが、大空襲で大半が焼失、その後、現在地に改装されました。この碑は、墓所入口に一列二段が一組になった奉納地蔵群が飾られ、小振りのお地蔵さんが、色とりどりの帽子前掛けをあてがわれ、小さな風車をかざして立ち並んでおられました。この檀が、三組墓地のあるところまで続いていました。
こうして、増上寺は、全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれ、関東十八檀林の主座を務めるなど、、常時3000人の僧侶が修学に励む寺院になりました。寺領は一万余石、二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、寺格百万石と謳われました。
明治時代に入ると、廃仏稀釈で境内地は召し上げられ、新政府の命令で、神官の養成も行いました。明治年間の2回の大火に、大殿など堂宇が焼失しました。明治8年(1875年)浄土宗大本山に列せられ伊藤博文など新しい檀徒をむかいいれ、復興の兆しが見え、大正時代には、殆どの堂宇が、修復されました。
しかし、昭和20年の東京大空襲で、増上寺は、その殆どが、灰儘に帰してしまいました。
昭和27年(1952年)、仮本堂を設置、同46年(1971年)、以後4年の歳月をかけ、35億円の巨費をかけて壮麗な新大殿を建立しました。このあと、平成元年(1989年)、開山酉譽上人550年遠忌を記念して開山堂、 平成21年(2009年)法然上人800年御忌記念で円光大師堂と学寮,翌22年には、安国殿が建立猿など、次々、整備が進み、今日のような景観を見られるようになりました。三解脱門・大殿・安国殿・光摂殿・円光大師堂・経蔵など、ご紹介したいのですが、紙数がつきますので、割愛します。
こうした、神社・寺院の歴史を調べ、記述しながら、感心しかつ、感動することは、東京にある殆どの寺社が、過去に、火災に遭ったり、震災に被害を受けたり、東京大空襲で、全滅してしまったにもかかわらず、しぶとく、甦り再生していることです。荒廃した焦土から立ち上がり、今日、私たちが参拝できるような寺社が存在するためには、幾多の艱難辛苦を乗り越え耐えて信念一途の信仰をもち,寺社の再生に命を懸けた、名もないどれだけの人がかかわったことでしょう。また、費用も膨大な額にのぼったと思います。しかし、こうした困難を乗り越えて、堂宇を再建して今日に至っているのです。これこそ、奇跡にも似た、奇瑞な現実ではないでしょうか?
日本人のバイタリテイ、日本人のエネルギー、日本人の信仰心、まだまだ捨てたものではありません。
閑話休題 私が愛読していた数々の本を出していた作者が、先日、お亡くなりになりました。英文学者で、詩人でもある加島祥造さんです。加島さんは、タオイストともいわれ、老子の研究・老子の思想の実践家でもありました。昨年12月25日、老衰のため92歳の生涯を閉じられました。
私も老子・荘子を知りたくて、岩波文庫の老子など、読んで見たのですが漢文と
翻訳文がなかなか、難しくて、理解できませんでした。ところが、加島祥造さんを知り、老子に関する本を紐解いたところ、加島さんも、私と同じように、老子を日本の漢文学者が翻訳し、解説しているのを読むと、解釈に難解なところがあり、老子の思想がよく理解できなかった。ところが、老子を、英米人の学者が英米文で翻訳したのを読んでみると、よく理解が出来、実に面白い内容であることが解かったといいます。老子は欧米では、実に多くの翻訳が出版されていて、びっくりしたとも言われていました。欧米語で、老子を呼んだほうが、解かりやすいといいます。
こうして、加島さんは、老子の英訳から、老子が考えた2500年前の「タオ」の思想を、日本語に翻訳する時、タオ(道)の深遠な思想を、解かりやすくするために、詩人としての資質を遺憾なく発揮させ、老子の言葉を、詩的表現していました。詩的翻訳した、加島さんのタオは、面白く、解かり易いことがわかりました。
加島さんは、信州・伊那谷という山奥の中で、都会の生活から離れて、たった一人で、孤独の暮らしをし、自然を相手にしながら、ただいちづに、タオに繋
がり、夏は、草の茂みの上で、天の星見て寝転び、冬は、深雪の中で写生する、
+仙人の様な生活を営み、老子のタオの思想を自称タオイストととして、世間の何物にも囚われない、真の自由な生き方をした方でした。
老子のタオ(道)とは、宇宙エネルギーみたいなもので電磁波のように、あらゆるものに行き渡り、その内に動き働く。タオ・エネルギーが一番よく現れているのは、大自然だとして、老子は、自然のあり方からタオを説くことが多い。老子は、人間の生命への大きな温かな思いやりを持ち、私たちに、タオの働きを気づかせようとする。ということです。神さま、仏さまのその先にある、エネルギーのようなものを感じさせてくれます。
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