福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

童子教解説・・4

2020-05-08 | 諸経
童子教( 傳安然(平安前期の天台僧)作、「塵添壒嚢鈔」「大蔵経データベース」「童子教故事要覧(加藤咄堂)」等により解説)・・4
「父の恩は山より高し。 須弥山尚(なを)下(ひく)し。 母の徳は海よりも深く滄溟の海還(かへ)つて浅し。 (心地観経「慈父の恩高きこと須弥山王の如し、悲母の恩深き事大海の如し。我若し世に住すこと一劫二劫に於いて説くとも尽くすこと能わず」)

白骨は父の淫、 赤肉は母の淫、 赤白の二諦和し五体身分(しんぶん)と成る。(灌頂私見聞に「・・又世間ノ父母ニハ胎赤肉ト云。又ハ金ハ白骨ト云。此時胎赤金白。若爾者相違如何
答。胎ノ白色ハ莊嚴ルカ故ニ。本體赤色也。金ハ白色ハ本體。赤色ハ莊嚴ナルカ。眞實ニハ理智ノ二境智ノ二法也。故ニ胎白金ハ赤ト可得意也」


胎内に処すること十月、 身心恒に苦労す。(阿難聞経・寶積経の意に依るに、母の胎内にて三十八箇の七日を経るなり一七日に一つの風吹きて形を次第に変えて三十八の七日をふれば凡そ二百六十六日なり。人の胎内に宿るは長い短いの不同あり。羅云は六年、脇尊者は六十年、伏羲は十二年、老耼は八十一年、聖徳太子や弘法大師は十二月胎にいます。仏祖統紀により計算するに釈尊も胎にいますこと十二か月なり。

胎外に生れて数年、 父母の養育を蒙る。昼は父の膝に居て、 摩頭を蒙ること多年、 夜は母の懐に臥して、 乳味を費すこと数斛(父母恩重経「母の乳を飲むこと、一百八十斛となす」)、
朝には山野に交はつて 蹄を殺して妻子を養ひ、暮には江海に臨んで 鱗を漁つて身命を資け、 旦暮の命を資からん為に 日夜悪業を造り、 朝夕の味を嗜まん為に、多劫地獄に堕つ。 恩を戴ひて恩を知らざるは、 樹の鳥の枝を枯らすが如し。 徳を蒙つて徳を思はざるは、野の鹿の草を損ずるが如し。 (大智度論にも「恩を知らざる人は畜生よりも甚だし」と。遺教経に「たとえば大樹の衆鳥之を集める時は則ち枯折の患あり」)

酉夢(ゆうむ)其の父を打てば 天雷其の身を裂く(岑象求の吉凶影響録にあり。『酉夢は唐の人、ある夜遅く帰宅せしを父が打擲しければ酉夢忽ち杖を以て父の顔を打つ、その時天俄かに掻き曇り地震霹靂して雷その家に落ち酉夢を掴んで空に登る、明日その死骸庭に落つ。背中に銘あり、「酉夢、打父天報裂身」といふ八字あり』)
班婦其の母を罵れば霊蛇其の命を吸ふ(張師正の括異記に『班婦、字は才幼、鐘山に居す。常に母をそしり,いかれり。或る時鐘山の巴蛇きたりて班婦を喰ふ』と)
郭巨(くはくきよ)は母を養はん為に、 穴を掘りて金の釜を得たり。(二十四孝より、「郭巨は河内といふ所の人なり。家貧(まど)しうして母を養へり。妻一(ひとり)の子を生みて三歳になれり。郭巨が老母、彼の孫をいつくしみ、わが食事を分け與へけり。或時、郭巨妻に語る樣は、貧(まど)しければ母の食事さへ心に不足と思ひしに、其内を分けて孫に賜はれば乏しかるべし、是偏に我子の有りし故なり、所詮汝と夫婦たらば子二度(ふたゝび)有るべし、母は二度有るべからず、とかく此子を埋みて母を能く養ひたく思ふなりと夫婦云ひければ、妻もさすがに悲しく思へども、夫の命に違はず、彼の三歳の兒(ちご)を引きつれて、埋みに行き侍る。則ち郭巨涙を押へて、すこし掘りたれば、黄金(わうごん)の釜(かま)を掘り出だせり。其釜に不思議の文字すわれり。其文(そのもん)に曰く、「天孝子郭巨に賜ふ、奪ふことを得ず、民取ることを得ず」と云々。此心は天道より郭巨に給ふ程に、餘人取るべからずとなり。則ち其釜をえて喜び、兒(ちご)をも埋まず、ともに歸り、母にいよいよ孝行をつくせるとなり。」)
姜詩(きやうし)は自婦を去りて、 水を汲めば庭に泉を得たり。(二十四孝より、「姜詩(きやうし)は母に孝行なる人なり。母つねに江の水を飲みたく思ひ、又なまいをの鱠(なます)をほしく思へり。すなはち姜詩妻をして、六七里の道を隔てたる江の水を汲ましめ、又いをの鱠をよくしたゝめて與へ、夫婦共に常によく仕へり。或時姜詩が家の傍に、忽ちに江の如くして水湧きいで、朝ごとに水中に鯉あり、すなはち之をとりて母にあたへ侍り。かやうの不思議(ふしぎ)なる事のありけるは、ひとへに姜詩夫婦の孝行を感じて、天道より與へたまふなるべし。」)
孟宗竹中(ちくちう)に哭すれば、 深雪の中に筍を抜く。(二十四孝より「孟宗はいとけなくして父に後れ、ひとりの母を養へり。母年老いて常に病みいたはり食の味ひもたびごとに變りければ、よしなき物を望めり。冬の事なるに竹子(たけのこ)をほしく思へり。すなはち孟宗竹林(ちくりん)に行き求むれども、雪ふかき折なればなどかたやすく得べき。ひとへに天道の御あはれみを頼み奉るとて、祈をかけて大きに悲み、竹によりそひける所に、俄に大地ひらけて、竹の子あまた生ひ出で侍りける。大に喜び、乃ちとりて歸りあつものにつくり、母に與へ侍りければ、母是を食してそのまゝ病もいえて齡をのべけり。是ひとへに孝行の深き心を感じて、天道より與へ給へり。」)


王祥歎きて氷を叩けば、 堅凍(けんたう)の上に魚踊る。(二十四孝より「王祥はいとけなくして母を失へり。父また妻をもとむ、其名を朱氏といひ侍り。繼母(けいぼ)の癖(くせ)なれば、父子の中をあしく言ひなして、惡まし侍れども怨とせずして、繼母にもよく孝行をいたしけり。かやうの人なる程に、本の母冬の極めて寒き折ふし、生魚(なまいを)をほしく思ひける故に、肇府(でうふ)といふ所の河へもとめに行き侍り。されども冬の事なれば、氷とぢていを見えず。すなはち衣(ころも)をぬぎて裸(はだか)になり、氷の上にふし、いを無きことを悲み居たれば、かの氷すこしとけて、いを二つをどり出でたり。乃ち取りて歸り、母にあたへ侍り。是ひとへに孝行のゆゑに、その所には毎年人の臥したる形(かたち)、氷のうへにあるとなり。」)


舜子盲父を養ひて、 涕泣すれば両眼を開く(孟子、離婁(りろう/「孟子」巻第八、離婁章句の図解に舜の父は目はあり、好悪(よしあし)をわかたざるゆへに時の人瞽叟(こそう)と名付くとあり。又小説家には舜の父実に瞽なり。舜これを舐(ねぶり)霍然(カクゼン/意味・いきなり)として開くと、この二説あり。本文にはのちの義をとりてしるせり。孝子伝ならびに史記を按ずるに舜の姓は姚(よう)字をば重華といへり。重華母に別れて父の瞽叟のちの妻を娶り象(しょう)といふ子をまふく。母はかたくなに象おごれり。舜には孝行あれども後の母悪心をもて舜を殺さんと瞽叟に讒言してはかりごとをめくらし舜に倉の屋根を葺かせけり。舜その心をさとりて手にふたつの笠を持ちて倉にのぼる。瞽叟下より火を放って倉を焼く。舜二つの笠を開きて飛び降りけり。瞽叟その死せざるをみてまた舜をして井を掘らしむ。これ舜を埋め殺さんためなり。隣の人その心を知り舜に告げて他国へ逃げよといふに、舜がいはく我ただ父母にしたがふて死して孝をなすべし。走りて(逃げて)不孝をなすべからずといへり。隣の人その心を憐れみて舜に銀銭五百文を与ふ。その明日井を掘るときに舜この銭を掘りあぐる土にまじへて上ぐる。父母大きに喜びて欲心に万事を忘れたり。そのひまに隣の家の井へ逃げ穴を掘りて逃れ出でて歴山の麓に耕してゐたり。歳々に三百石の米を納む。そののち父の瞽叟は盲(めしひ)となり母は聾(耳しひ)、弟は唖(おし)となり貧困にしてまた天火(落雷によっておこる火災)にあふて家を焼く。舜は継母をみるに薪を売りて飢寒なるていなりしかば舜悲しみて食物を与へ薪を買ふに値をましてその米の袋の中へ銭を入れてかへらしむ。かくのごとくすることたびたびなり。瞽叟怪しみてこれもし我が子の舜にあらじやと手を妻にひかれて市に出で、つゐに舜に会ふて名乗りあひ父子相抱き悲哭哀傷(ひこくあいしょう)ちまたにみつ。市の人これを見て悲嘆せずといふことなし。舜手をもって父の目を撫でて天にあふひでかなしむにたちまち両目開け母の耳また音を聴き、弟の唖よくものいふようになれり。この孝順四海に聞こふ。尭帝その聡明を聞きて天子の位を譲りたまへり。舜その位にあること八十二載也。)


刑渠(けいこ)老母を養ひて食を噛めば齢(よはひ)若く成る(楽史が孝悌録に刑渠は会稽の人なり。幼少にして父を失い母を養い至って孝行也。母若し病あれば夜を寝ずして看病セリ。冬は床を温め夏は床を扇ぐ。朝夕母に仕えて味を調え好き好まれし食物を供えたる故に年七十ばかりなるに常に三十ばかりに見えしとなり。)

董永(とうゑい)一身を売りて、 孝養の御器(ぎよき)に備ふ。(二十四孝によると「董永(とうえい)はいとけなき時に母に離れ、家まどしくして常に人に雇はれ農作をし、賃をとりて日を送りたり。父さて足も起たざれば小車(せうしや)を作り、父を乘せて、田のあぜにおいて養ひたり。ある時父におくれ、葬禮をとゝのへたく思ひ侍れども、もとよりまどしければ叶はず。されば料足十貫に身をうり、葬禮を營み侍り。偖かの錢主(ぜにぬし)の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり。かの董永が妻になるべしとて、ともに行きて、一月にかとりの絹三百疋織りて、主(ぬし)のかたへ返したれば、主もこれを感じて、董永が身をゆるしたり。其後婦人董永にいふ樣は、我は天上の織女(おりひめ)なるが、汝が孝を感じて、我を降(くだ)しておひめを償(つぐの)はせせりとて、天へぞあがりけり。」



楊威は独りの母を念つて、虎の前に啼きしかば害を免る。(二十四孝では少し変わってこうなっています「楊香(やうきやう)はひとりの父をもてり。ある時父と共に山中へ行きしに、忽ちあらき虎にあへり。楊香、父の命を失はんことを恐れて、虎を追ひ去らしめんとし侍りけれども叶はざる程に、天の御あはれみを頼み、こひねがはくは我命を虎にあたへ、父を助けて給へと、心ざし深くして祈りければ、さすがに天も哀とおもひ給ひけるにや、今まで猛(たけ)きかたちにて執りくらはんとせしに、虎俄に尾をすべて逃げ退きければ、父子ともに虎口の難をまぬがれ、つゝがなく家に歸り侍るとなり。これひとへに孝行の心ざし深きゆゑに、かやうの奇特をあらはせるなるべし。」)


顔烏(がんう)墓に土を負へば、 烏鳥(うちやう)来つて運び埋む。(広與記十金花府の人物類にあり。また 今昔物語集 巻9第10話 「震旦顔烏自築墓語 第十」に「今昔、震旦の東陽と云ふ所に、顔烏と云ふ人有けり。幼稚の時より孝養の心深し、 而る間、其の父死せり。顔烏、此れを葬(はふり)して、墓を築(つか)むと為るに、自ら一人して、土を負ひ運て、更に他の人の力を加えしめず。然れば、其の事成り難し。 而る間、天地、此の事を助けて、忽に、千万の烏、其の所に集り来て、各塊(つちくれ)を含て、顔烏が墓を築く所に置く。此れに依て、墓、心の如くに疾く成ぬ。 即ち、顔烏、其の烏を見るに、烏毎に、口より血出たり。然ば、含める所の塊に、皆血付たり。見聞く人、此れを、「奇異也」と思て、孝養の心の深き事を貴びけり。 此れに依て、其の県を名付て、「烏傷県」と云ふ。其の後、王莽の時に改めて、烏孝県と云ふ。孝行の深きを烏の示したれば、烏孝県とは云ふ也となむ、語り伝へたるとや。」とあり。)

許孜自ら墓を作れば、 松柏植へて墓と作る(氏族排韻に晋の許孜、字は季義といへり。東陽の人、二親死して後に身をやつれ骨をも断ちて憂い嘆きて土を負うて墳を作るに鹿ありてその植えたる松柏を損ず。許孜嘆き悲しみければ明日その鹿たけき獣に食われて死にけりと広與記にあり。その孝行を感じてその里を「孝順里」というなり。松柏とは「まつがえの木」をいうなり。盂蘭盆経の新記には松柏すなわち墳に植ゆるところの樹なりといえり)


此等の人は皆、 父母に孝養を致し、 仏神憐愍を垂れ、所望悉く成就す。 生死の命は無常なり、早く涅槃を欣ふべし、煩悩の身は不浄なり、速に菩提を求むべし。


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