福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・9

2024-01-09 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・9

七に怨賊難

「若三千大千國土滿中怨賊。有一商主將諸商人。齎持重寶經過嶮路。其中一人作是唱言。諸善男子勿得恐怖。汝等。應當一心稱觀世音菩薩名號。是菩薩能以無畏施於衆生。汝等。若稱名者。於此怨賊當得解脱。衆商人聞倶發聲言南無觀世音菩薩。稱其名故即得解脱。」

「若」は不定の辞。上に順ぜよ。

「三千大千國土滿中怨賊」とは上に同じく、假に設る辞なり。此の中に「三千」等は難ある處所を指す。「滿中怨賊」とは正く難を明かす。賊は寶を奪ひ、怨は命を断つ。賊にしてしかも怨なるは、難弥よ重きことを明かす。「有一商主」等の十六字は難に遭ふ人を標するなり。此の中に「有一商主」とは主を明かし、「將諸商人」とは其の黨類をあらはす。「齎持重寶」とは齎持(つつみもて)る所は代に稀なる重寶なり。盗賊の望み深き物を持つが故に難の切なることを彰はす。「經過嶮路」とは「經過」はわたりとをるなり。「嶮路」とは険阻にして前後狭き、或は盗賊の衝出る悪道なり。重寶を持して而も又嶮路を度る、是慎深く憂切なることを表すなり。「其中一人作是唱言。諸善男子勿得恐怖。汝等。應當一心稱觀世音菩薩」とは、機を明かす一章なり。此の中に初めに「其中」より「恐怖」までの十六字は、一人の安慰するを以て其の恐怖を止ることを明かす。「唱言」とは「諸善男子」より「當得解脱」までの四十七字を指す。「諸善男子」とは、諸等商人を指す。「勿得恐怖」とは正く安慰するなり。「汝等」の十四字は正く称名を勧るなり。此の中に「汝等」の二字は諸の商人を指す。「一心」とは、事の一心、理の一心の両種。上に註するが如し。(「一心に二種あり。念念相続して更に餘を念ぜざるは事の一心なり。一心深く實相の理に入て能帰依能稱の我も、所稱の名號も、所帰依の観音、皆是平等法界にして不可得なりと見るは、理の一心稱名なり。此の事理両種の一心を離て散乱の心の中に唱へ、或は世話を交へて唱るは縦使年月を歴るとも其功あるべからざるや」)。「稱觀世音菩薩名號」とは正く上策(すぐれたるはかりごと)を出す。謂く、衆の怨賊の難を逃んとならば、此の観世音菩薩を称念するに過ぎたる計策は無きなり。「是菩薩」等の二十五字(是菩薩能以無畏施於衆生。汝等。若稱名者。於此怨賊當得解脱)は菩薩の徳を歎じて其の膽を定めしむるなり。何となれば膽定らざれば疑を懐くが故に、称名に効を得ること難ければなり。此の中に初めより「施於衆生」までは先ず菩薩の徳を歎ず。初めの中に「是菩薩」とは観世音の人を指す。「能以」の下は正しく徳用を歎ず。中に就いて「無畏」とは苦難を救ふて怖畏なからしむるなり。

次に「汝等」とは諸の商人を指す。「衆商人聞」の下の十五字(衆商人聞倶發聲言南無觀世音菩薩。)は機を明かす。此の中に「衆商人聞」とは一人の勧奨を聞き、又 「観音を念ずるには南無観世音菩薩と云ぞ」と聞くなり。「倶發聲言」とは諸人同音に唱ふるなり。是は陸地の難は走逃げ、或は竄(かくる)ることもあるべければ、其の心決定して一同しがたし。此の故に衆の皆唱ると云て一人も別心なきことを明かすなり。「南無観世音菩薩」とは、略して正しく所称の名號を出す。若し廣じて称せば、「南無大聖観自在菩薩摩訶薩大悲者」と云ふべし。千手の大陀羅尼、十一面の大陀羅尼、如意輪及び不空羂索の大陀羅尼の中の「帰命」の句、皆是なり。凢そ蓮華部の尊の真言には皆是を通用するなり。此の中の「南無」とは𦾔家の梵語なり。新譯には「曩謨」「南麽」等と云。轉聲しては「曩謎」「曩麽」「曩まん」「曩莫」「南麽」等と云。唐には「帰命」と云。又敬禮とも云。𦾔には「度我」とも「救我」とも云。此の二名は義翻なり。されども其の義、今の文に親し。「稱其名故即得解脱」とは、應を明かす。應験傳に曰、晋の隆安二年(東晋第十一主安帝初元。398年)慧達と云者、北の方隴山の上にして甘艸を掘る。時に西羌(青海省を中心に中国北西辺境一帯に散在したチベット系遊牧民)飢て人を捕て食ふ。達、羌の為に捕られ柵の中に閉籠らる。多くの人の中に肥たる者を撰んで食ふ。達、急に一心に稱名し且つ經を誦するに、餘人は皆食ひ盡して、達と及び一人の小児とを以て明日の食に擬す。達、竟夜(よもすがら)經を誦するに暁に至て羌来たりて二人を取らんとす。忽ちに一つ虎、草の中より透出て咆哮す。諸の羌走散りぬ。虎即ち柵を齧んで一つ穴を作して去る。達、小児を将れて走て免れたり。又裴安起と云者北の「えびす・口偏に虜」より叛(にげ)て還るに南の方黄河に至る。河深く廣ければ徒渉ること能はず。後を顧みれば追騎已に近つ゛く。死せんこと須臾にありしに、安起、一心に稱名せしかば何より来るものとも知らず一の白狼来て安起を抱て、一擲に南の岸に過(わた)しぬ。其の狼行方を知らず。追騎、北岸に在てこれを見て驚くこと極りなし。若し観心の釈ならば、亦三あり。一には果報の怨賊。謂く地獄には執杖鬼等の阿防羅刹の無慈悲なるあり。或は鐵の烏、眼を決り肉を啄く。鐵の虎、鐵の蛇、鐵の蟲、血を吸ひ肌を螫す。皆是罪人の肉を劫め命を奪ふ怨賊なり。鬼道には大力の鬼は下劣の鬼の食を奪ひ、或は其の棲を奪ふ。又飢たる女鬼は其の子を喰ふ。是は母ながら怨なる理なり。畜種には強きは弱きを殺し、大なるは小きを劫る等、是皆怨賊なり。修羅の怨賊は諸天なり。若し天、戦強き時は修羅多く残虐せられ、諸天皆海底の宮殿に亂入して修羅の児女を強奪すといへり。(正法念誦經畜生品)。人中の怨賊は上の如し。乃至子として父母の財を盗み用ひ、或は他の物を借て還さず、甚だしき者は、人を殺し父母を害するに至る。是皆怨賊なり。天の上には欲界の六天皆怨賊なり。起世経の第八に曰、阿修羅王、毗摩質多羅、踊躍、幻化の三阿修羅王と共に諸の軍衆を率て忉利の諸天と戦闘す。又時に諸龍・地居夜叉、鉢手・持鬘・常酔の三夜叉及び四天王、若し戦輸(まく)る時は四王共に帝釈に白す、帝釈即ち一の天摩那婆(此には儒童といふ)を夜摩天・都率天・樂変化天・他化自在天に遣して援兵を請ふ。時に四(よたり)の天王、各の軍衆を将、青黄赤白の難降伏の旗を竪て、須弥の四面の峯の上に在て立つ(起世經卷第八三十三天品第八之三にあり)。(乃至廣説)此は修羅を以て怨賊とす。かくの如き難にも若し能く稱名すれば即ち難を脱(まぬかる)るなり。

二には悪業の怨賊。若し人、善を修せんとするに悪業忽ちに起って其の善を妨ぐるは皆是怨賊なり。

三には煩悩の怨賊。此に四種の釈あり。初めに受戒に就いて釈せば、和上・羯磨・教授の三師は是商主(人々を安穏に目的地に導く隊商の長のような方)なり。受者は是商人なり。無作の戒體(円頓戒では智顗の『梵網菩薩戒経義疏』によって「起さずんば已やみなん。起こさばすなわち性なる無作の仮色」といわれるように、性・無作・仮色を戒体とする。性とは本来具有の義、無作とは表に顕われない潜在行為、仮色とは種々の因縁によって作り出された身体のこと)は是重寶なり。色聲香味觸の五塵は破戒の縁と成るが故に是怨賊なり。二に聴法について釈せば、説法師はこれ商主なり。聴法の者は是商人なり。教と理とは重寶なり。師弟両ながら魔事に遇は是怨賊なり。三に修観に約せば心王(心のはたらきの主体である識。対象の総体をとらえる。)はこれ商主なり。心数(心王に従属し,心と相応し,心と同時に存在する種々の精神作用のこと。)は商人なり。正観(観ずる心と観ぜられる対象とが相応すること)の智は是重寶なり。悪覚観を怨賊とす。四つに正助(正定業とは極楽往生が正まさしく定まる行、もしくは阿弥陀仏によって正しく定められた行の意味で、具体的には称名念仏を指す。助業とはその称名念仏を助ける行のことで、助行ともいう。この両者を合わせて、正助二行)に約せば般若は是商主なり。五度万行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)は是商人なり。法性實相は是重寶なり。六蔽(慳貪・破壊・瞋恚・懈怠・散乱・愚痴)は是怨賊なり。此等の怨賊にも若し能く一心に観誦すれば即ち解脱するなり。

 

 

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