摩訶般若波羅蜜經卷第十・法稱品第三十七(般若波羅蜜は諸仏を生じ仏舎利を生じ衆生の苦を抜く)
佛、釋提桓因に告げて言く、「憍尸迦、若し閻浮提に満る佛舍利を一分となし、復た人ありて般若波羅蜜經卷を書して
一分と作さば、二分のうち汝何所いずれを取るや」。釋提桓因佛に白して言く、「世尊、若し閻浮提に満る佛舍利を一分と作し、般若波羅蜜經卷を一分と作さば、二分の中、我寧ろ般若波羅蜜經卷を取らむ。何以故。世尊、我佛舍利において
恭敬せざるに非ず、尊重せざるに非ず。世尊、是の舍利は般若波羅蜜中より生し、般若波羅蜜に修熏せらるるを以ての故に、是の舍利は供養恭敬尊重讃歎を得ればなり。爾時、舍利弗、釋提桓因に問ふ、「憍尸迦、是の般若波羅蜜は取るべからず。無色無形無對一相にして所謂無相なり。汝云何んが取んと欲するや。何以故。是の般若波羅蜜は取ることを為さざるが故に出で、捨つることを為さざるが故に出で、増減聚散損益垢淨を為さざるが故に出ず。是の般若波羅蜜は諸佛法を輿へず、凡人法を捨てず、辟支佛法阿羅漢法學法を輿へず、凡人法を捨てず、無爲性を輿へず、有爲性を捨てず、内空乃至無法有法空を輿へず、四念處(三十七道品の最初の修行法。身を不浄とする身念処、感受するものすべて苦とする受念処、心は無常とする心念処、法は無我であるとする法念処の四つ)乃至一切種智を輿へず、凡人法を捨てざるべければなり」。釋提桓因、舍利弗に語るらく、「如是如是、舍利弗。若し人ありて是の般若波羅蜜諸佛法を輿へず、凡人法を捨てず、乃至一切種を輿へず、凡人法を捨てずと知らば、是の菩薩摩訶薩は能く般若波羅蜜を行じ、能く般若波羅蜜を修す。何以故。般若波羅蜜は二法相を行ぜざるが故に。不二法相は是れ般若波羅蜜なり。不二法相は是れ禪那波羅蜜乃至檀波羅蜜なり」。爾時、佛、釋提桓因を讃じて言く、「善哉善哉。憍尸迦。汝の所説の如し。般若波羅蜜は二法相を行ぜざるが故に不二法相は是れ般若波羅蜜なり。不二法相は是れ禪那波羅蜜乃至檀波羅蜜なり。憍尸迦、若し人、法性の二相を得んと欲する者は、是の人、般若波羅蜜の二相を得んと欲すと為す。何以故。憍尸迦。法性と般若波羅蜜とは無二無別なり。乃至檀波羅蜜も亦た如是なり。若し人、實際不可思議性の二相を得んと欲する者は、是の人、般若波羅蜜の二相を得んと欲すと為す。何以故。般若波羅蜜と不可思議性とは無二無別なればなり。
釋提桓因白佛言「世尊、一切世間人及び諸天阿修羅は應に般若波羅蜜を禮拜供養すべし。何以故。諸菩薩摩訶薩は般若波羅蜜中に學して阿耨多羅三藐三菩提を得ればなり。世尊、我、常に善法堂上に在りて坐す。若し我座に不在の時は、諸天子來りて我を供養するが故に、我が坐せる處たるが為に作禮し繞り竟りて還去す。諸天子は是の念を作す。釋提桓因は是處にありて坐し、諸三十三天の為に説法するが故に、如是に世尊、在所處に是の般若波羅蜜經卷を書し、受持讀誦し、他の為に演説せば、是の處は十方世界中諸天龍夜叉揵闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽、皆な來りて般若波羅蜜を禮拜し供養已りて去る。何以故。是の般若波羅蜜中に諸佛生じ、及び一切衆生の樂具(福徳)を生ずるが故なり。諸佛舍利も亦た是の一切種智の住處の因縁たるのみ。是を以ての故に世尊、二分中に我れ般若波羅蜜を取る。
復た次に世尊、我れ若し般若波羅蜜を受持讀誦し心深く法の中に入らば、我れ是の時、怖畏相を見ず。何以故。世尊、是の般若波羅蜜は無相無貌無言無説なればなり。世尊、無相無貌無言無説は是れ般若波羅蜜乃至是れ一切種智なり。世尊、般若波羅蜜、若し當さに有相にして無相に非ざるべくんば、諸佛は一切法は無相無貌無言無説と知りて阿耨多羅三藐三菩提を得、弟子の為に諸法も亦た無相無貌無言無説と説く。世尊、般若波羅蜜は實に是れ無相無貌無言無説の故に、諸佛は一切諸法は無相無貌無言無説と知りて阿耨多羅三藐三菩提を得、弟子の為に諸法も亦た無相無貌無言無説なりと説く。是を以っての故に世尊、是の般若波羅蜜を一切世間諸天人阿修羅は應に恭敬供養尊重讃歎し香華瓔珞乃至幡蓋を以てすべし。復次に世尊、若し人有りて般若波羅蜜を受持し親近讀誦し説き、正憶念し、及び書写し華香乃至幡蓋をもて供養せば、是の人、地獄畜生餓鬼道中に堕せず。聲聞辟支佛地に堕せず、阿耨多羅三藐三菩提を得て常に諸佛を見たてまつり、一佛國より一佛國に至りて諸佛を供養し恭敬尊重讃歎し華香乃至幡蓋を以てす。復た次に世尊、三千大千世界に満る佛舍利を一分と作し、般若波羅蜜經卷を書して一分と作さば、是の二分中、我ことさらに般若波羅蜜を取る。何以故。世尊、是の般若波羅蜜中に諸佛舍利を生ず。是を以ての故に、舍利は供養恭敬尊重讃歎を得、是の善男子善女人は舍利を供養し恭敬するが故に天上人中の福樂を受けて常に三惡道に堕せず、所願の如く漸く三乘法を以て涅槃に入る。是の故に世尊、若しは現在佛を見る有り、若しは般若波羅蜜經卷を見るも等しくして異ることなし。何以故、世尊、是の般若波羅蜜と佛とは無二無別なるが故に。復た次に世尊、佛、三事(神通・説法・教誠)の示現に住し、十二部經(修多羅・祇夜・和伽羅・伽陀・優陀那・本事・闍多・毘仏略・阿浮陀達磨・尼陀那・阿婆陀那(譬喩)・優婆提舎)修多羅祇夜乃至優波提舍を説き給ふが如し。復た善男子善女人有りて是の般若波羅蜜を受持誦説せんに等しくして異ること無し。
何以故、世尊、是の般若波羅蜜中に三事示現及び十二部經修多羅乃至優波提舍を生ずるが故に。復た次に世尊、十方諸佛は三事の示現に住し十二部經修多羅乃至優波提舍を説く。復た人有りて般若波羅蜜を受けて他人の為に説くと等しくして異あることなし。何以故。般若波羅蜜中に諸佛を生じ、亦た十二部經修多羅乃至優波提舍を生ずればなり。復た次に世尊、若し十方如恒河沙等の世界の中の諸佛を供養し恭敬尊重讃歎華香乃至幡蓋をもってすると、復た人の般若波羅蜜經卷を書し恭敬尊重讃歎し華香乃至幡蓋を以てすると、其福正に等し。何以故、十方諸佛は皆な般若波羅蜜中より生ずればなり。復た次に世尊、善男子善女人、是の般若波羅蜜を聞き、受持讀誦正憶念し亦た他人の為に説かば、是の人、地獄道畜生餓鬼道に堕せず。亦た聲聞辟支佛地に堕せず。何以故。當に知るべし、是の善男子善女人、正に阿惟越致地(不退地)の中に住するが故に。是の般若波羅蜜は一切の苦惱衰病を遠離す。復次に世尊、若し善男子善女人有りて是の般若波羅蜜經卷を書し受持親近供養恭敬尊重讃歎せば是の人は諸恐怖を離る。世尊、譬ば負債人の國王に親近し左右に供給せば債主反って更に是の人を供養恭敬し、是人復た畏怖せざるが如し。何以故。世尊、此人は王に依近し憑恃して有力なるが故に。如是に世尊、諸佛舍利は般若波羅蜜に修熏せらるるが故に、供養恭敬を得る。世尊、當に知るべし、般若波羅蜜は王の如し。舍利は負債人の如し。負債人は王に王るが故に供養を得る。舍利も亦た般若波羅蜜のに修熏に依るが故に供養を得る。世尊、當に知るべし、諸佛の一切種智も亦た般若波羅蜜の修熏を以ての故に成就を得る。是を以ての故に世尊、二分中に我般若波羅蜜を取る。何以故。世尊、般若波羅蜜中に諸佛舍利三十二相を生じ、般若波羅蜜中に亦た佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲を生じ、世尊、般若波羅蜜中に五波羅蜜を生じ、便ち波羅蜜の名字を得、般若波羅蜜中に諸佛の一切種智を生ずればなり。
復次に世尊、所在の三千大千世界中に若し般若波羅蜜を受持供養恭敬尊重讃歎する有らば、是の處は若しは人、若しは、其の便を得る能ずして是の人、漸漸に入涅槃するを得。世尊、般若波羅蜜は大利益を為す。如是に三千大千世界中に能く佛事を作す。世尊、所住の處に在りて般若波羅蜜有らば則ち佛有りと為す。世尊、譬へば無價摩尼珠寶の所住の處に在りては其の便を得ざるが如し。若し男子女人、熱病有りて是の寶を以て身上に著くれば、熱病即時に除愈す。若しは風病あり、若しは冷病あり、若しは雜熱風冷病ありて寶を以て身上に著くれば皆な悉く除愈す。若し闇中に是の寶あれば能く明ならしめ、熱時は能く涼ならしめ、寒時は能く温ならしむ。寶の所住の處、其地は不寒不熱にして時節和適す。
其の處亦た諸餘の毒螫なし。若し男子女人毒蛇のために螫さるるも寶を以て之を示さば毒即除滅す。復次世尊、若し男子女人、眼痛膚醫盲瞽あるも寶を以て之に近ずけば即時に除愈す。若し癩瘡惡腫あるも、寶を以て身上に著せば病即ち除愈す。復次世尊、是の摩尼寶所在の水中、水隨って一色を作す。世尊、若し青き物を以て裹みて水中に著くれば、水色則ち青と為り、若し黄赤白紅縹物を裹みて水中に著くれば、水隨って黄赤白紅縹色と作る。如是等の種種の色物をもて裹みて水中に著くれば、水隨って種種色と作る。世尊、若し水濁れるも寶を以て水中に著れば即ち清く為る。是の寶、其徳如是なり」。爾時阿難、釋提桓因に問ひて言く「憍尸迦、是の摩尼寶、爲是を天上の寶と為んや。是を閻浮提の寶と為んや」。釋提桓因、阿難に語って言く「是れ天上の寶なり、閻浮提の人も亦、是の寶あれども、但だ功徳相少くして不具足なり。天上の寶は清淨輕妙にして譬喩を以て比を為すべからず。復次に世尊、是の摩尼寶は、若し篋中に著くれば寳を擧げて出すも、其功徳は篋を薫ずるが故に人皆愛敬す。如是に世尊、所在の處に在りて、般若波羅蜜經卷を書する有れば、是も處則ち衆惱之患無きこと亦た摩尼寶所著の處則ち衆難無きが如し。世尊、佛般涅槃後、舍利、供養を得るは皆な是れ般若波羅蜜の力、禪那波羅蜜乃至檀那波羅蜜、内空乃至無法有法空、四念處乃至十八不共法、一切智法相法住法位法性。實際不可思議性一切種智、是の諸の功徳力なり。善男子善女人、是念を作す。是の佛舍利は一切智・一切種智・大
慈大悲・斷一切結使及び習、常捨行不錯謬法等の諸佛功徳住處なり。是を以ての故に、舍利は供養を得。世尊、舍利は是れ諸功徳寶波羅蜜の住處、不垢不淨波羅蜜の住處、不生不滅波羅蜜、不入不出波羅蜜、不増不損波羅蜜、不來不去不住波羅蜜なり。是の佛舍利は、是れ諸法相波羅蜜の住處なり。是の諸法相波羅蜜を以て薫修するが故に舍利は供養を得。
復次に世尊、置三千大千世界中に滿る舍利、如恒河沙等の諸世界、其中に満る舍利を置きて一分と作し、人有りて般若波羅蜜經卷を書して一分と作さば、二分之中我般若波羅蜜を取る。何以故、是の般若波羅蜜中に諸佛舍利を生じ、是の般若波羅蜜に修薫せらるるが故に舍利は供養を得ればなり。世尊、若し善男子善女人有りて舍利を供養し恭敬尊重讃歎せば、其の功徳報は得邊すべからずして、人中・天上の福樂を受く。所謂、刹利大姓婆羅門大姓居士大家、四天王天處乃至他化自在天中に福樂を受く。亦た是の福徳因縁を以ての故に當に苦を盡すことを得べし。若し是の般若波羅蜜を受けて讀誦解説正憶念せば、是の人、能く禪那波羅蜜を具足し乃至能く檀那波羅蜜を具足し、能く四念處を具足し乃至能く十八不共法((1) 身無失 (2) 口無失 (3) 念無失 (4) 無異想 (5) 無不定心 (6) 無不知捨心 (7) 欲無滅 (8) 精進無滅 (9) 念無滅 (10) 慧無滅 (11) 解脱無滅 (12) 解脱知見無滅 (13) 一切身業随智慧行 (14) 一切口業随智慧行 (15) 一切意業随智慧行 (16) 智慧知過去世無礙 (17) 智慧知未来世無礙 (18) 智慧知現在世無礙)を具足し、聲聞辟支佛地を過ぎて菩薩位に住す。菩薩位に住し已りて菩薩神通を得、一佛國より一佛國に至る。是の菩薩は衆生の為の故に身を受け、其の所應に随って衆生を成就す。若しは轉輪聖王と作り、若しは刹利大姓と作り、若しは婆羅門大姓と作りて衆生を成就す。以是故に世尊、我れ輕慢を為して恭敬せざるが故に舍利を取らざるにあらず、善男子善女人般若波羅蜜を供養せば則ち舎利を供養することとなるを以ての故のみ。復た次に世尊、人有りて十方無量阿僧祇諸世界中、現在佛の法身色身を見んと欲せば、是の人、應に般若波羅蜜を聞・受持・讀誦・正憶念し他人の為に演説すべし。如是の善男子善女人は當に十方無量阿僧祇世界中の諸佛の法身色身を見るべし。是の善男子善女人、般若波羅蜜を行ずるも、亦た應に法相を以て念佛三昧を修すべし。復次に善男子善女人、現在諸佛を見んと欲せば、應當に是の般若波羅蜜を受け乃至正憶念すべし。
復次に世尊、二種の法相あり。有爲の諸法相と無爲の諸法相なり。云何んが有爲諸法相なるや。所謂内空中の智慧、乃至無法有法空中の智慧、四念處中の智慧、乃至八聖道分中の智慧、佛の十力四無所畏四無礙智、十八不共法中の智慧、善法中不善法中、有漏法中無漏法中、世間法中出世間法中の智慧、是を有爲諸法相と名く。云何んが無爲諸法相と名くる。若し法生無く滅無く住無く異無く垢無く淨無く増無く減無きは諸法の自性なり。云何んが諸法自性と名くるや。諸法、所有の性無き是れ諸法の自性なり。是を無爲の諸法相と名く」。爾時、佛、釋提桓因に告げたまはく「如是なり如是なり。憍尸迦よ、過去の諸佛は是の般若波羅蜜の因に依って阿耨多羅三藐三菩提を得る。過去諸佛の弟子も亦た般若波羅蜜に因って須陀洹道乃至阿羅漢辟支佛道を得たり。未來現在世十方無量阿僧祇諸佛も是の般若波羅蜜に因って阿耨多羅三藐三菩提を得ん。未來現在の諸佛の弟子も亦た是の般若波羅蜜に因って須陀洹道乃至辟支佛道を得ん。何を以っての故に般若波羅蜜中に三乘の義を廣説するや。無相法を以ての故に、無生無滅法の故に、無垢無淨法の故に、無作無起不入不出不増不損不取不捨法の故に、俗法を以ての故に、第一義にあらざればなり。何以故。是の般若波羅蜜は非此非彼、非高非下、非等非不等、非相非無相、非世間非出世間、非有漏非無漏、非有爲非無爲、非善非不善、非過去非未來非現在なり。何以故。憍尸迦、般若波羅蜜は聲聞辟支佛法を取らず、亦た凡人法を捨てざればなり」。釋提桓因、佛に白して言さく「世尊、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じ、一切衆生の心を知るも亦た衆生を得ず、乃至知者見者をも亦た得ず、是の菩薩、色を得ず、受想行識を得ず、眼乃至意を得ず、色乃至法を得ず、眼觸因縁生受乃至意觸因縁生受を得ず、四念處乃至十八不共法を得ず、阿耨多羅三藐三菩提を得ず、諸佛法を得ず、佛を得ず。何以故。般若波羅蜜は法を得ることを為さざるが故に出ずればなり。何以故。般若波羅蜜性、所有無く不可得なり。所用の法不可得、處も亦た不可得なればなり」。
佛、釋提桓因に告げて言く「如是なり如是なり。憍尸迦、汝の所説の如し。菩薩摩訶薩は長夜に般若波羅蜜を行ずるに阿耨多羅三藐三菩提を得べからず。何に況んや菩薩及び菩薩法をや」。爾時、釋提桓因、佛に白して言さく「世尊、菩薩摩訶薩は但だ般若波羅蜜を行じ、餘の波羅蜜を行ぜざる耶」。佛、釋提桓因に告げて言はく「憍尸迦。菩薩は盡く六波羅蜜法を行ず、無所得を以ての故に。檀那波羅蜜を行ずるも施者を得ず、受者を得ず、財物を得ず。尸羅波羅蜜を行ずるも戒を得ず、持戒人を得ず、破戒人を得ず。乃至、般若波羅蜜を行ずるも智慧を得ず、智慧人を得ず、無智慧人を得ず。憍尸迦、菩薩摩訶薩は布施を行ずる時、般若波羅蜜は爲に明導と作り、能く檀那波羅蜜を具足す。菩薩摩訶薩は持戒を行ずる時、般若波羅蜜は爲に明導と作り能く尸羅波羅蜜を具足す。菩薩摩訶薩の忍辱を行ずる時、般若波羅蜜は爲に明導と作り能く羼提波羅蜜を具足す。菩薩摩訶薩は精進を行ずる時、般若波羅蜜は爲に明導と作り能く毘梨耶波羅蜜を具足す。菩薩摩訶薩は禪那を行する時、般若波羅蜜は爲に明導と作り能く禪那波羅蜜を具足す。菩薩摩訶薩は諸法を観ずる時、般若波羅蜜は爲に明導と作り能く般若波羅蜜を具足す。一切法、無所得を以ての故に所謂色乃至一切種智あり。憍尸迦、譬ば閻浮提の諸樹は種種の葉、種種の華、種種の果、種種の色、其の蔭差別無きが如く、諸波羅蜜も般若波羅蜜中に入り薩婆若に至れば無差別なること亦た如是なり。無所得を以ての故に」。
釋提桓因、佛に白して言さく「世尊、般若波羅蜜は大功徳を成就す。世尊、般若波羅蜜は一切の功徳を成就す。世尊、般若波羅蜜は無量の功徳を成就し無邊の功徳を成就し、無等の功徳を成就す。世尊、若し善男子善女人有りて是の般若波羅蜜經卷を書し恭敬供養尊重讃歎し、華香乃至幡蓋を以てし、般若波羅蜜所説の如くに正憶念すると、復た善男子善女人ありて般若波羅蜜經卷を書して他人に與ふると、其福何所れか多しと為すや」。佛、釋提桓因に告げたまはく「憍尸迦、我還って汝に問はむ、汝の意に随って我に報へよ。若し善男子善女人有りて、諸佛舍利を供養し恭敬尊重讃歎し華香乃至幡蓋を以てすると、若し復た人有りて舍利を分かつこと芥子許の如くして他人に與へて供養恭敬尊重讃歎華香乃至幡蓋せしむると、其の福、何所か多しと為すや」。釋提桓因白佛言「世尊。我、佛より聞法中の義の如くば、善男子善女人ありて自ら舍利を供養し乃至幡蓋を以てするも、若し復た人有りて舍利を分かちて芥子許の如くして他人に與へて供養せしむるも其福甚だ多し。世尊、佛は是の福、衆生を利するを見るが故に、金剛三昧中に入りて、金剛身を砕きて末舍利と作す。何以故。人有りて佛滅度後、佛舍利の乃至芥子許の如くなるを供養するも其福報無邊にして乃至苦を盡くせばなり。佛、釋提桓因に告げて言く「如是なり如是なり憍尸迦、若し善男子善女人、般若波羅蜜經卷を書し供養恭敬香花乃至幡蓋を以てするも、若し復た人有りて般若波羅蜜經卷を書し他人に與へて學ばしむも、是の善男子善女人は其の福甚だ多し。復次に憍尸迦、善男子善女人、般若波羅蜜中の義のい如く他人の為に説き開示分別し解し易からしむれば、是の善男子善女人は前の善男子善女人の功徳に勝る。所從の般若波羅蜜を聞く、當に其人を視ること佛の如く、亦た高勝梵行人の如くすべし。何以故。當に知るべし、般若波羅蜜は即ち是れ佛なり。般若波羅蜜は佛と異ならず。佛は般若波羅蜜と異ならず。過去未來現在の諸佛、皆な從般若波羅蜜中より學し、阿耨多羅三藐三菩提及び高勝梵行人を得る。高勝梵行人とは所謂阿惟越致(不退転)なり。菩薩摩訶薩は亦た是の般若波羅蜜を學して當に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。聲聞人は是の般若波羅蜜を學して阿羅漢道を得、辟支佛道を求むる人は是の般若波羅蜜を學して辟支佛道を得、菩薩は是の般若波羅蜜を學して菩薩位に入ることを得る。以是故、憍尸迦、善男子善女人は現在佛を供養し恭敬尊重讃歎花香乃至幡蓋せんと欲せば當に般若波羅蜜を供養すべし。我、是の利を見る。初めて阿耨多羅三藐三菩提を得る時、是の念を作す、誰か供養恭敬尊重讃歎依止して住すべき者ある、と。憍尸迦、我、一切世間中において若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは沙門婆羅門中に、我と等しき者を見ず。何況んや勝る者有んや。我又自ら思念すらく、我所得の法、自ら作佛を致す、我是の法を供養し恭敬尊重讃歎し依止し住すべし。何等か是の法なる。所謂般若波羅蜜なり。憍尸迦、我れ自ら是の般若波羅蜜を供養し恭敬尊重讃歎し已りて依止し住せん。何に況んや善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲して而も般若波羅蜜を供養し恭敬尊重讃歎花香瓔珞乃至幡蓋を以てせざらんや。何以故。般若波羅蜜中に諸菩薩摩訶薩を生じ、諸菩薩摩訶薩中に諸佛を生ずればなり。以是故、憍尸迦、善男子善女人、若しは佛道を求め、若しは辟支佛道を求め、若しは聲聞道を求めば、皆應に般若波羅蜜を供養し恭敬尊重讃歎花香乃至幡蓋を以てすべし。」