徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

日本人のDNA -その11-

2006年03月28日 09時38分54秒 | 日本人のDNA

、「国家の品格」(藤原正彦著 新潮新書)ベストセラーで150万部も売れているそうです。

「日本のDNA」もこの本の中から僕なりに解釈して掲載してきました。
今、なぜ「国家の品格」が問われているのでしょうか?
この本を読まれた方は、よくご存知ですが、まずこの本を読もうと思われた方はそれなりに関心があるからこそ読まれたものであろうと思われます。

一部では、負け組がこの本を読んで昔を偲んで「してやったり」と読んでいるとも言われています。
「親父」が昔の話を若者には話しが出来ないので読んで溜飲を下げているとも言われています。

しかし、その親父は元より先祖からの引き継いだ日本人が持っていて日常の生活の糧や常識が失われようとしているこの時代に警鐘を鳴らしていることを知るべきと思います。

日本人が古来、受け継いできた「情緒と形」をすっかり忘れ、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に身をまかせてしまった事を嘆き、日本人に誇りと自信を持って欲しいことを願って書かれたものです。
日本は、その国柄を失い、品格に欠ける国家になってしまったのです。

日本には、なにも特別の国ではありませんが、「普通の国」でもないのです。
藤原氏によれば、日本は「異常な国」ということです。
この資源もない小さな島国が、これほど著しい発展をしてきたのか、これ程異常であったのか、それは大雑把に言って、日本人が持っていた「国柄」が素晴らしいものだったからと述べています。

日本が世界のどの国とも本質的に違う独特な文化文明を作りあげ、先人の作り上げた日本文明の優れた独自性を、今後どうして守り続けるかが、子孫である我々の義務と思うと結んでいます。


日本人のDNA -その10-

2006年03月24日 11時03分31秒 | 日本人のDNA

まだ、WBCの初代世界一の余韻が残っています。
選手の多くは、日の丸を背負って戦うことは、その重さと誇りを持っていると述べています。
他の国の選手も同じ思いで戦ったことでしょう。

しかし、韓国のメデアは、日本の世界一は、韓国に2度も負けての世界一であり、本当の世界一とは言えず、再度挑戦してはと、挑発しています。
韓国としては、悔しい結果であったことには、違いありません。
運営面や制度面にも問題はありましたが、それでもそのルール通り勝ち進んでいったのですから、ここでその制度を逸脱しての批判には当らないと思います。


今日の絵は、雪の終着駅(函館駅) F8号

勝負の世界は勿論のことながら、「卑怯を憎む心」は、常日頃しっかりと育てなくてはなりません。
法律のどこにも「卑怯なことはいけない」とは書いていません。
だからこそ重要なのです。

「卑怯を憎む心」を育てるには、武士道精神に則った儒教的な中から家族の絆も復活させないといけません。
これが昔にはあったお陰で昔の子供たちは万引きをしなかったのです。

今の子供たちは、「万引きをしないのは、それが法律違反だから」と言います。
「法律違反だから万引きをしない」などと言う人は、誰も見ていなければ万引きをすることでしょう
法律に禁止されていないことはなら何でもするようになるのです。
時間外取引でこそこそと株を買い占めるような人間がどんどん生まれているのです。 法律に禁止されていても、分からなくては、その禁止されていることでもしてしまう事になって行くのです。

家族の絆の中にいた昔の子供たちは、万引きなんかしたら「親を泣かせる」「先祖の顔に泥を塗る」「お天道さまが見ている」と考えたのです。

家族の絆が「卑怯を憎む心」を生みだすのです。


日本人のDNA-その9-

2006年03月15日 09時01分08秒 | 日本人のDNA

再び、新渡戸稲造です。
彼は、武士道の最高の美徳として、「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」と書いています。

そして、彼は日本人の美意識にも触れています。
「武士道の象徴は、桜の花だ」とも言っています。
桜の花と、西洋人の好きなバラの花を対比して、こう言っています。

桜はその実の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花も及ぶところではない。 バラに対するヨーロッパ人の賛美を我々は分かつことを得ない」と・・・・。

  

バラは花の色も香りも濃厚で、美しいけれどトゲを隠しています。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色あせて枯れていきます。

それに比べ桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散ります。

太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、桜の芳香、朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるに勝る清澄爽快の感覚はない」
この清澄爽快の感覚が大和心の本質であると、新渡戸は説いています。


日本人のDNA-その8-

2006年03月11日 08時36分31秒 | 日本人のDNA

今、新渡戸稲造の「武士道」が見直されています。

「武士道」と言うと、切腹とか、刀を抜くことと誤解している節がありますが、本来の「武士道」とは、その刀を如何に抜かないようにするかの忍耐の美徳であり、愛情を注ぐ道徳で、武士だけではなく、日本人全てが持っていた共有の価値観なのです。


「武士道」に明確な定義はありません。が新渡戸稲造は、外国人に日本人の根底にある形を解説するために新渡戸稲造なりに解釈したものです。

新渡戸稲造が「武士道」を書いたのは、明治32年で、日清戦争と日露戦争の間の時期で、世界が日本に注目を浴び始めた頃です。

彼はある時、ベルギー人の法学者と散歩しながら、「日本には宗教教育がない」と応えると「宗教なしでどうして道徳教育が出来るのですか?」と驚かれた。
そこで、よくよく考えると、自分の正邪善悪の観念を形成しているのが、幼少期に身に着けたのが「武士道」であると気づいたのです。

そこで日本人の魂を西洋人に分からせたいと熱望し、「武士道」を英語で紹介することを思いつき、分かり易いようにギリシャ哲学や聖書、シェックスピア、ニーチェ等と比較したり、本居宣長や平敦盛、吉田松陰などを引きながら武士道精神の本質について説きました。

これがアメリカで出版されると、絶大な賞賛を受け、当時に大統領ルーズベルトは、親戚知人は言う及ばず他国の首脳たちにも送ったそうです。


日本人のDNA -その7-

2006年03月07日 09時04分44秒 | 日本人のDNA

美的感受性や日本的情緒を育むものとともに、人間には一定の精神の形が必要です。 この行動基準、判断基準となる精神の形、即ち道徳です。

このような精神の形として、情緒を生む精神の形として、日本には「武士道」というのがあります。

  新渡戸稲造

新渡戸稲造著の「武士道」は、最近、書店でよく見かけるようになりました。
また、それに付随する書物も沢山刊行されています。

「武士道」は鎌倉時代以降、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきました。 この中には、慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠などが盛り込まれています。
惻隠とは、他人の不幸への敏感さです。

「武士道」はもともと、鎌倉武士の「戦いの掟」でした。
いわば、戦闘の現場におけるフェアプレィ精神です。

しかし、260年余の平和な江戸時代に、「武士道」は、武士道精神として洗練され、物語、浄瑠璃、歌舞伎、講談などを通して町人や農民にまで行き渡ります。

このようにして、武士階級の行動規範だった「武士道」は、日本人全体の行動規範となっていきました。

最近、日本人は勿論、欧米人の学者の間で江戸時代を見直す動きが高まっています。 なぜ、江戸時代なのか、どうして明治の混乱期に新渡戸稲造が「武士道」を書いたのか、それも海外むけの英語で発刊されたのでしょうか?


日本人のDNA -その6-

2006年02月28日 09時42分41秒 | 日本人のDNA

「もののあわれ」と言う自然に心を通わせるような、素晴らしい感性を日本人は備えています

もう一つ、日本人の誇りうる情緒として「懐かしさ」があります。
これも非常に高度な感性なのです。


 今日の絵は、「小樽運河」です。 F10号

外国人にも当然ホームタウンへの郷愁はありますが、それは淡いもので、日本人の郷愁は、感受性の強い濃厚な郷愁な情緒です。

いかに濃厚なのかは、懐かしさを歌った文学が山ほどあることからも明らかです。
万葉集の中には防人の歌を始め、郷愁を歌ったものがかなりあります。 近代短歌でも石川啄木や斉藤茂吉、俳句では、与謝蕪村、詩の世界でもたくさんありますが、このような文学をたっぷりと子供に読ませなくてなりません。
故郷を失った人が多い中、これは非常に大事なことではないでしょうか?
英語を学ぶ前に、日本の文学に触れ、正しい日本語と日本の感性をしっかりと覚えこまなくてはなりません

この懐かしさと言う情緒は、「家族愛」「郷土愛」「祖国愛」そして「人類愛」なのです。


日本人のDNAーその5-

2006年02月25日 09時22分39秒 | 日本人のDNA

日本人は虫の音を音楽として聴き、そこに「もののあわれ」さえ見出しています。

さらに日本人は、自然と心を通わせるという特技をも持っています。
俳句などは、その好例です。

芭蕉の「枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ」という俳句を、ある欧米人に読んで聞かせその俳句の意味を説明したところ、その人は、「それで?」と答えたそうです。

つまり、欧米人のとって「枯れ枝に烏がとまっています。秋の暮れに」だけではスートリーが始まらないのです。
日本人なら「それで?」など聴き返すことなく、秋の夕日に沈む様子に枯れ枝が伸びて、その枝にポツンと止まっている烏の姿が思い浮かび、秋の憂愁がその村全体を覆っているイメージが湧いてきます。 烏の黒一点が秋の中心であるかの如くの風景を浮かんできます。

人によりニュアンスの相違はあれ、こんなことを日本人なら誰でも瞬間的に思い描いています。


今日の絵は、”松島”です。F8号

「古池や 蛙飛び込む 水の音」という日本人なら誰でも知っている芭蕉の俳句でも日本人なら、森閑としたどこかのお寺の境内の古池で、蛙が一匹ポチョンと飛び込む光景を想像し、その静けさを感じとることが出来ます。

しかし、日本以外の国では、古い池の中に蛙がドボンと飛び込む光景を想像するらしいく、これでは情緒も何もあったものではありません。

このように自然に心を通わせるような、素晴らしい感性を日本人は備えているのです。

つまり、これらは自然に恵まれたお陰で、自然にひれ伏す気持ちが生まれ、無常観が発達したのです。


日本人のDNA-その4-

2006年02月22日 09時29分28秒 | 日本人のDNA

「もののあわれ」は、無常観をさらに具象化された情緒なのです。
日本の中世文学のほとんどが、この「もののあわれ」を描いています。

人間のはかなさや、悠久の自然の中でうつろいてゆくものに美を発見する感性です。
「もののあわれ」に対応する英語は存在しません。 又それに近い英語も存在しないそうです。

今日の絵は、胡蝶蘭です。 F8号

とある英国の教授が、虫の音(ね)を聞いて、「あのノイズはなにか?」と言ったそうです。ノイズつまりこの教授は、虫の音を雑音と言うのです。

日本人は、秋になれば虫の音が聞こえ、枯葉が舞い始めと「ああ、もう秋だなぁ」と感ずるのです。
日本人は、虫の音を音楽として聴き、そこに「もののあわれ」さえ見出しているのです。
欧米においては、稀にしかいない詩人だけに限られてた感性を、日本では、ごく普通の庶民でさえ、ごく当たり前にもっているのです。
秋になって遠くから鈴虫の音が聞こえてくると、心が洗われ、秋の憂愁に心を静ませる、このようなことが、古代から日常的に行われているのです。

虫の音を楽しむというのは、欧米は勿論、中国や朝鮮半島にもないことだそうです。

このように「もののあわれ」の感性は、日本人がとりわけ鋭いのです。

 


日本人のDNA-その3-

2006年02月19日 09時34分56秒 | 日本人のDNA

今、日本は、今までにない事態が続出しています。
4点セットとか5点セットとか言われる、ライブドア事件、耐震偽装事件、BSE事件、官製談合事件、東横イン偽装事件、それに米軍移転問題、高齢者リフーム詐欺事件、etc

これらの事件や問題点は、今までの日本では、考えられないことで、日本国内だけではなく、国際的にも日本人の品位が問われています。
日本人の本質は、どこに行ったのでしょうか?

昨日、日本人には「悠久の自然と儚い人生」という対比を感じやすく「無常観」というものを生みやすい風土があることを述べましたが、この高尚な日本人気質が今、瓦解しています。

     
  お釈迦様            インドのお釈迦様

「無常観」というものは、もともとインドのお釈迦様が言ったことです。
お釈迦様の言う無常は哲学です。 万物は流転します。いくら頑張っても、私どもの周りの人は100年経てばいなくなり、周りの建物も朽ちてしまいます。
なにもかも永遠に同じ状態を保つことは出来ない、という当たり前とも言える哲学ですが、日本人は何でも真似をして変質させ、日本人のものにしてしまいます。

この「無常観」も「すべてが変わりゆく」と言うドライな達観から派生して、弱者や敗者へのいたわりと言う情緒を生み出しました。

むなしく悲しい宿命を共有する人間同士の連帯、そして不運な者への共感へと変質していったのです、が今の日本には、この「無常観」が無くなって来ているのは、悲しい限りです。

この「無常観」は、さらに抽象化され「もののあわれ」という特有な感性的な情緒になりました。


日本人のDNA -その2-

2006年02月18日 08時30分49秒 | 日本人のDNA

日本人の繊細な美的感受性は、世界の人々が認めるところです。
現在の日本人には、分からないと思われますが、生活の隅々まで沁みこんでいるのです。

日常のお茶を飲むのを考えても、イギリス等西欧諸国ではみんなマグカップにドボドボと注いでガブ飲みをします。
しかし、日本では茶道というものにしてしまいます。

 
     茶道                  華道

花の活け方も、日本では華道にしてしまいます。
字を書くのでも書道にしてしまい、何でも芸術にしてしまいます。

 
 漢字を真似してあっという間に訓読みと万葉かな、続いて平かな、カタカナを発明して完全に日本のものとしてしまいました。                          

柔道や剣道でもとかを重視します。
諸外国の格闘技とはだいぶ趣(おもむき)が違うようです。

自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒が、日本人の核となっているのです。
「悠久の自然とはかない人生」という対比の中に美を感じると言う類(たぐい)まれな能力も日本人にあるのです。

日本という土地には、台風や地震や洪水など、一年を通じて自然の脅威が絶えません。 他国より余計に「悠久の自然と儚い人生」と言う対比を感じやすく、「無常観」というものを生みやすい風土なのです。