成り上がり者が勝手に元の名字を都合の良いように名乗ることは、通常はあり得ません。
名字が、家の由来を表す厳密なものであるという前提があればの話です。
戦国時代の人々は、出世に応じて、その身分にふさわしい名字を名乗ることに一種の名誉とされていたようです。
戦国時代には、実力主義でありながらも、家柄を重んじる風潮が強く残っていました。
権力者は、名字の贈与を通じて人心をつかんでいました。
豊臣秀吉も多くの大名に与えていました。
それは羽柴姓も同様です。
これは、江戸時代にも引き継がれ、徳川姓は、御三家を始めとする特別の家に与え、松平姓は、徳川家と姻戚関係になった大名に与えていました。
大名も家臣に名字を与える例も多い。
これは、江戸時代の農家や商家にも見られ、使用人を独立させるときに自家の屋号や家紋を分け与えている。
しかし、天明二年(1782年)に幕府の直轄領では、「特別の由緒や奇特な儀があって許した場合を除いて、農民に名字を名乗らせない」というお触れが出ています。
江戸時代の名字(苗字)・帯刀が許されるのは次の場合です。
1、郷士のように以前から苗字・帯刀が許されているもの。
2、褒賞として新たに認められたもの。
3、町年寄、庄屋、名主、御用町人、宿場の本陣などの役についている場合。
他に、神官とか医者とかも名字の使用を認められていました。
今年の作品から
” 静 物 ” 水彩画 F6号
明治時代になると、新政府は四民平等の社会を実現する方針をとり、明治3年(1870年)9月に農民や町民にも名字を用いることを許す太政官布告され、戸籍制度の制定と同時進行されました。
さらに、甲斐とか土佐のような国名や大膳、主水などの旧官名を用いることをも禁止されました。
また、通称と実名も併称することをも禁じ、改称することも禁じた。
この布告の前の職員録には、「従三位守藤原朝臣利通 大久保」と、位階、姓、名が重んじられ、名字は末尾に小書きされています。
江戸時代の公式文書では、吉良上野介源義央のように、名字と通称との組み合わせ、姓名の組み合わせの両者を併記していました。
この煩雑さを解消され、身分制度の崩壊とともに、今日のように名字と名前が公式のものとなりました。