日々の出来事 7月2日 たわし
今日は、西尾正左衛門が、“亀の子束子”で特許を取得した日です。(1915年7月2日)
昔から、藁や縄を束ねた“たわし”は、洗う道具として使われていましたが、西尾正左衛門は靴拭きマットに用いていたシュロを針金で巻いたものを丸め“亀の子束子”と命名して、洗浄用に利用することを考え出しました。
現在、亀の子束子は、スリランカ産天然ヤシ製と中国産シュロ製があり、年間600万個が製造され、30ヶ国へ輸出されています。
たわし
☆今日の壺々話
たわし礼賛
『亀の子たわし』は調理器具を洗う時、欠かせない道具である。
例えば木べらを洗うときは木目にそって、たわしを動かす。
あるいはまな板には包丁によって細かいキズがついているので、そのなかの汚れをかき出すためにたわしが必要だ。
個人的な話をすると『亀の子たわし』を僕が改めて見なおしたのは、農園から直接野菜を送ってもらうようになってからだった。野菜は鮮度を落とさないために、泥で湿度を保っている。その泥を落とすときに、『亀の子たわし』が非常に役に立つ。
使っていてあまりにもきれいに土が落ちるので気持ちいいくらいなのだけど、そのあたりの感覚は海外の人も同じみたいだ。
試しにamazon.comで「japanese tawashi(kamenoko)」を検索すると、様々なレビューが読めるのだが「Amazing(すごい!)」や「Great scrubber(すごいスクレーバー)」と絶賛されている。野菜を洗うのに、あるいは鋳鉄のフライパンを洗うのに重宝されているようだ。
考えてみれば「亀の子たわし」は純日本生まれ、この形のものは海外にはない。それに当連載で扱うテーマのなかで最もポピュラーなものではあるが、意外と「コアユーザーが料理人」だと知らない人も多いのではないだろうか。
高品質の日常品を工業的に生産し、低価格で普及させるというあたりにも、日本人らしい〈なにか〉が潜んでいるのではないか、という仮説を立てて、詳しいお話を伺いたいと、年間何百万個と『亀の子たわし』を製造している西尾商店に連絡を入れ「どのようにつくっているのか」と質問してみた。
対応していただいた広報さんから頂いた答えに驚いた。
「 工業的? いいえ、亀の子たわしは刈り揃える工程をのぞき、現在でもすべて手作業でつくられています。」
年間何百万個と製造される『亀の子たわし』は機械的な工業生産品ではなく、人の手によってつくられていた。
会社は大正期に建てられた近代建築で、創業100年を超える企業に相応しい趣のある社屋を今も守っている。
「 『亀の子たわし』が当社の登録商標だと知らない方も多いんです。なので、よその商品でたまにこちらの名前をつけられている商品を見つけると、メールで『うちのですよ』とやらなければならない。面倒ですけど、しょうがないです。」
広報さんとともにマーケティングさんは言う。
「 ところで『亀の子たわし』の成り立ちはご存じですか?」
というわけで鈴木さんによる『亀の子たわし』誕生物語である。
『亀の子たわし』の誕生は1907年まで遡る。ことのはじまりは初代西尾正佐衛門が発案した靴拭きマットだった。それまでの縄を編んだだけのマットと違い、針金にシュロ(棕櫚)をまきつけたそれは道路が舗装されていない時代、靴についた泥を落とすのに都合が良かった。
この足拭きマット、はじめは評判を呼んでよく売れたが、体重の重い人が載ったり、何回も使用しているうちにシュロの毛先が潰れて使い物にならなくなってしまうため、その後は期待したほど売れなかった。
「これはいかんなぁ」という折、正佐衛門は妻が返品されてきたマットを切りとり、シュロが巻きつけてある針金を折り曲げたもので、障子のサンを掃除している姿を見た。
「 これだ!」
昔からたわしのように使われていたのは藁や縄を束ねたもの。針金で巻いたシュロなどという今から見ればお馴染みの「たわし」はそれまで存在していなかったのだ。正佐衛門は、掃除道具は女性が多く使うものだから、と妻の手の形にあわせて試作を繰り返した。
しかし、形は出来たが、名前が決まらない。日がな一日、考えていると子どもが亀と遊んでいる場面と出くわした。
「 たわしはカメに似ている。それにカメは水に縁もある。亀たわし、いや、かわいくするために子をつけて『亀の子たわし』というのはどうだろう。亀は万年ともいうし、縁起もとてもいい、というわけです。」
亀に似てるからっていう理由もすごいですよね。外国人の方が見たら、亀だって思うんですかね?
「 いや、思わないでしょうね。」
その後、正左衛門の西尾商店は『亀の子たわし』を世に送り続けるのだが、その間も様々な出来事がある。
「 まず、質の低い模倣品、類似品が続出したことです。うちの会社は売上の半分を訴訟に注いでいた、という時期もあったようです。例えばお馴染みのこのパッケージ。外から中身が見えません。(現在は後ろからは見えるように改良されている)買うときに中身が見えない商品というのは普通ありえませんが、こんな風になったのにはそのあたりにも理由があるんです。」
特許侵害に苦しんだ『亀の子たわし』はある時、訴訟で戦うのをやめ、広告による認知の徹底に方針転換する。もう〈品質で信頼を勝ち取るしかない〉と、この時期からブランドとしての『亀の子たわし』が定着し、現在に至る。
「 近年では百円ショップなどの登場によって、中国製などの類似品が出回りました。でも、やはり質が低いですね。こんなこと言うのはあんまり好きじゃないんですが、食べ物に近い場所、あるいは食べ物に使える代物じゃないと思います。匂いを嗅げばわかりますよ。粗悪な製品は油臭かったり、薬品臭かったりする。安く売られている製品のほとんどはうちの検査なら通りません。」
使い方を忘れた日本人たちもいる。
「 スポンジは家にあるが、キッチンにたわしがない、という家庭も増えてきました。たわしはなくてもザルって家にありますよね? ザルはスポンジでは洗えません。そのあたりのことをもう少し伝えようと、本社に併設されているショップではディスプレイしています。」
『亀の子たわし』を襲うのは類似品との闘いだけではない。使い方がわからない、という消費者が徐々に増えだしているのだ。
「 これは情報発信を怠ってきた、我々にも責任があります。たわしってなんにでも使えるので、これまではお客様自身の使い方に委ねていた、という側面があります。ところが家族構成の変化などによってたわしの使い方が伝承されなくなっています。それでいつのまにか家庭の道具だった『たわし』が、業務用の道具になってしまった、というか。」
「 たしかに。料理屋的にはたわしは必要不可欠な道具なんです。」
「 ああ、それはすごくわかります。このあいだうちに学生さんが見学に来て、その方は中華料理屋で、アルバイトをされていたそうです。で、店主の方に「おい、たわしを買ってこい」とお使いに行かされたんですって。それで、その方は安いものを買ってきてしまったそうです。そうしたら、店主の方に「なんだこのタワシは使えねぇじゃないか」とひどく叱られたと。飲食店の方は『亀の子たわし』の今も昔もコアユーザーです。やはり多少高くても、長く使えるもののほうがいい、ということをわかってくださってます」
「 でも、今は料理人でも使い方を知らないというケースが結構あるんです。かつては徒弟制度があって、そのなかで技術継承がなされていましたんですけど、今はそうでもなくなってきました。例えば焼しめの器などはたわしで洗うことで、使いながら育てていくものだったのですが、そういう風に扱われていないことがあります。」
「 そうですか。器屋さんで一件、うちのタワシとセットで売っている、というところを知っています。やっぱり、手入れの仕方も一緒に売っていかないといけなくなってきた。うーん、今後は使い方も含めてお教えするっていうと偉そうで嫌なんですけど、提案させてもらいたいですね。用途に応じていい製品というのはやはりありますから。」
疑問に思ったのは「どうして、手作業でつくっているのか?」ということだ。
「 なんていいますか、手作業でしかつくれないんです。逆に機械化できない、というか。それはつくっている工程を見ていただいたほうがわかりやすいかと思います。」
「 繊維は天然のものです。右と左で太さも違います。それを均一にするのが人間の手、指先の感覚でしかできません」
これまで様々な日本の職人の仕事を見せてもらっているが、そこにはみな共通点がある。それは不均一な素材を人間の手によって整えて、美しいものをつくっていることだ。出来上がったものは繊維が揃っていて、コロコロとしていてかわいい。どこか生き物っぽくも見える。
「 針金がついている部分が頭、内側がへそ、丸い部分が尻といった具合に呼ばれています。」
ところで日本の3大発明というのをご存知だろうか? 「ナショナル、松下幸之助の『二股ソケット』」「ブリジストン、石橋正二郎の『ゴム足袋』」そして「西尾商店、西尾正左衛門の『亀の子たわし』」と言われている。二股ソケットもゴム足袋も企業を育てたが、現在は商品として見かけることはなくなった。しかし『亀の子たわし』は今も愛され続けている。
じつはたわしだけではなく、スポンジもつくっている。水切りがよく ネットショップで10個、20個とまとめ買いする愛好者もいる商品、とのこと。
「 うちの主力商品は現在でも『亀の子たわし』です。日本のメーカーでタワシを専門につくっているのはうちを含めて2社だけです。社長の言葉で僕が気に入っているのがあって、それは『うちが『たわし』をつくるのを辞めると、よその品物が一般的にイメージされる『タワシ』になってしまう。だから作り続けなくちゃいけないんだ』というもの。なるほどな、と思って。この本社の建物と同じようにロストテクノロジーかも知れませんが、なかなかおもしろいところのある製品です。」
100年間、1つの商品が会社の経営を支えているケースは本当に稀だし、ましてや「スタンダード」となると限られている。
時代は変わり、様々な商品が生まれては消えていった。例えばテレビやオーディオ、パソコンといったものは携帯電話と融合し、スマートフォンに変わった。そうしたなかで『亀の子たわし』という商品が風化しないのは、それが普遍的なものに依拠しているからだ。料理をはじめとした手仕事がなくなることもない。
人間の手の形は今も昔もそう違いはない。タワシの形が変わらないのは、それが洗うという経験から導き出された必然的な形状だからだ。西尾正左衛門が亀の子たわしを生み出せた理由として、夫婦の愛を挙げる人もいる。「愛」は陳腐化された言葉ではあるけれど、「信頼」という言葉と同じように、やはり普遍的なものだ。
いろんなものを見失いがちな、変わりゆくスピードの早い時代だ。でも、そうしたなかで100年、変わらない商品をつくる会社は経営において、あるいは人になにかを提供することの根本にはなにがあるべきなのかを僕らに教えてくれるように思う。
テレビを見ていてむかついた瞬間
昔やっていた東京フレンドパークのダーツ。
タワシを作っている会社に勤めている私の親父は、これが始まると無言でチャンネルを変えた。
タワシコロッケ
原稿描く気が出ないから、気を高めようと弟に「ちょっと罵って!」と頼んだ。
怒りと悔しさでやる気を出そうと思ってたのに、
「 このオタク!
オタクが漫画描かないなら、なにをするっていうの!
描かないオタクはただのオタクよ!
豚だって空を飛ぶのよ!
すごくね!
立ちなさい、このホモ好き!
タワシコロッケを、おみまいするわよ!」
と、何故かオカマ口調の弟にウケてしまって、怒りも悔しさも出ない。
女王様っぽいから、首にクリスマスの飾りに買っておいたファーを巻いて、鞭のかわりにバドミントンを持たせてみた。
さらにウケる姿に。
二人ともバカ笑いでテンションが上がってしまい、そのまま公園直行バドミントン。
「 くらいなさい、スーパーサーブ!」
「 こんなもので、私に敵うとお思いかしら!」
とか、18歳の姉と16歳の弟が、お互いオカマ口調で全力バドミントン。
ファーは暑いからとった。
近所のおばさんが、
「 今日も、二人とも面白いなぁ。」
と言いながら横を散歩してた。
28cmのフライパン
一人暮らしを始めるにあたって、意気込んでフライパンを買った。
ブランドとかわからんが、とにかく28cmのやつを1本。
それまで、料理なんて全くしなかったんだが、一人暮らしだから自分で作るしかない。
そう思って、買った。
空焼きしたり、油を馴染ませたり、手入れを怠って真っ赤に錆びさせたり、それを金たわしでゴシゴシやって、また空焼きして油を馴染ませたり。
とりあえず、目玉焼きは、上手になった。
彼女ができた。
すんげーかわいいし素直。
だけど、料理はぜんぜんダメだった。
たまの休みの日には、俺がちょっとだけ贅沢してステーキを焼いた。
彼女はミディアム、俺はレアが好きだった。
このフライパンは、お前と出会う前から俺と一緒に暮らしていると言ったら、彼女はふくれっ面になって、それから笑った。
俺と彼女は幸せな時間を過ごした。
料理が下手な彼女は、目玉焼きを何度も焦がした。
俺は笑いながら、焦げた目玉焼きを美味しく頂いた。
大事なフライパンなのに、ごめんなさいと、彼女は詫びた。
大丈夫だよと金タワシでこすって空焼きしたら、彼女はフライパンの深く碧い色を、“きれいね”と言った。
彼女は、突然、いなくなった。
事故だった。
俺は今も、時々、フライパンを金タワシでこすって空焼きする。
深く碧い色が蘇る。
彼女の“きれいね”という言葉が蘇る。
28cmのフライパンは、俺と一緒にいる。
焦げた目玉焼きはもう食べられないが、フライパンのおかげで、彼女の“きれいね”は、今でも、いつでも聞ける。
砂漠のたわし
数年前の実話です。
ヨルダンの砂漠で迷子になりました。
周りは一面砂と空。
砂に埋もれてるきれいな人骨が友達に見えて安心感すら感じた。
夜になると急激に寒くなりそいつと自然に添い寝をした。
それから3日間がたった。
まだ2月だったので昼間でも日ざしはきつかったけど、気温はさほどでもなかったのが助かった。
その日奇跡的に通りかかったトルコ人バックパッカー二人組に助けられ、 数キロ離れた遊牧民のベドウィンの家につれていってくれた。
着いてすぐ子供達に歓迎され、あれこれ話しかれられたがアラビア語はまったく理解できなかった。
その家の家長はアリという人だった。
アリはこの家で唯一英語が話せた。
僕が日本人だということを話すと、アリは思い立ったように歌いはじめた。
「 しあわせんあら、手を叩こ。しあわせんあら、手を叩こ。」
僕が、
「 何で、その歌知ってるの?!」
とびっくりして聞くと、 何年も前に一緒に数カ月、移動しながら暮らしていた日本人がいたことを話してくれた。
その話が出た時点でトルコ人の片方ハッサンが言った。
「 さっきまでお前の隣にいたやつだよ。」
助けられたばかりで、すっかり気が弛んでいたところなだけに衝撃だった。
ああ見えてあそこは彼のお墓だったのだそうだ。
「 日本人は友達思いだな。」
と言ってアリは笑った。
信じられないという思いもあったけど、その笑顔を見てその日本人は満足のいく一生を送ったように思われ、悪い気分にはならなかった。
数日後、体力を回復した僕は出会ったトルコ人の勧めでトルコへ渡り、ロシアを経由して日本へ帰国した。
骨になっていた彼の名前は、アリが「たわし」と言っていたので「たかし」とか「ただし」みたいな名前だと思います。
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