現実化と映像化との同一化の核心にあるものは、ふたつだ。
ひとつは、規定できるかぎりでの現実よりも過剰になり、重畳された現実は、かならず
映像化されるということだ。もうひとつは、構築された物の体系からできた現実が、天
然を内包するところでは、差異を介して映像化が生じるということだ。
何をなすべきかという問いが消滅して、その同じ場所にどう存在すべきかという問いが
発生するのはそのためなのだ。
『ハイ・イメージ論』
Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012
● 安土山から繖山へ
連日の地震報道でぐずつき、予定時間の午前6時になっても態度を決めかねていたが、8時に家を出て30分後安土城趾の
向かい無料駐車場(見寺:そうけんじ)に止め入場する。入園料は700円だが以前は無料で大手門を仰ぎ望めたが見せ
物小屋の様に視界を遮る配置となっている。
入場門の右手にトイレと休憩城の建屋か新築されていたのも目新しいかったが(下写真)、過去2度ほど登城しているので
朧気ながらレイアウトは記憶に残っている。ただ予定していた安土山を経由して繖山(きぬがさやま)に向かうことは不可
能であることを了解する(囲い込みされていて抜け道がない)。
天主跡――背丈ほどの宮古の石垣に囲まれ東西南北それぞれ約28メートルの台地。今は礎石が1.2メートルおきに整然と
並ぶだけだが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた、五層七階(地
上6階地下1階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さで
あったとし、高さ33メートルの高層木造建築は当時、わが国で初めてのものである。内部は信長の御用絵師、狩野永徳の
豪壮な障壁画や装飾を配している――にと登ると、日本一のパワースポットである琵琶湖が眺望できるが、常緑針葉樹林の
スギ、ヒノキなどの高木が周りの景観を遮り、竹田城のような開放感は失われている。一通り散策した後下城し、繖山への
登山口をどこにするか考え、安土城考古博物館の駐車場を経由し、正規の登山口コースではなく、途中から合流する保安林
道からの入山を試みる。
西の湖の眺望
信長公本廟
天主跡西下の伝二の丸跡に信長の本廟がある。重臣、羽蔡秀吉は天正11年1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月信長
ゆはりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直重などの遺品を埋葬して本廟とした。そして6月2日の一周忌には織田一族や家
臣を集め、盛大に浩要を行った記録されている。
三重塔
山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き、室町時代の建物で棟柱に、享徳3年(1454)建.た、天文24
年(1555)修理の墨書きがある。天正3~4年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものと書かれている。
慶長9年(1604)豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理してしいる。大正3年9月、突然三層目の屋根と一、二層の軒が崩落し
たがすぐに修復されている。
二王門(楼門)
棟木に「元亀二2(1571)7月甲賀武士山中俊好建立」とある。屋根は入母屋造り、本瓦蒼吉茅葺き。門内に安置されて
いる金剛力像も門同様国措定重要文化財で頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝市の造像銘が残っており、信長が天
正年間に甲賀から移した。
登山道合流点道標
繖山登山道から考古博物館を眺望
繖山登山道から安土山と八幡山を眺望
目的の安土山-繖山(観音寺山)三角点へは約3時間を要し到達、天候は、晴天、微風で午後から谷風が吹き心地が良かった。
ここで一旦昼食を取り、観音寺城跡に向かい、そこで反転し、元来たコースを辿り博物館駐車場まで戻る、帰りのコースは約
1時間(体調は、睡眠不足でも悪くはないが1年のブランクもあり身体は重い)次回は、1週間後日枝神社から観音寺城趾ま
で登り折り返し、箕作山々頂を目指しコース確認する。今回のコース観察の感想を下記に列記する。
- 安土城趾は、「修景:雄大な景色や都市計画・道路計画的側面である自然の美しさを損なわないように風景を整備し保
存する」事業と言う観点から物足りなさが残る。 - また、安土城趾天主と繖山(観音寺山)三角点の二つの眺望の配慮整備が望まれる。
- 「ビオトープ:有機的に結びついた生物群群集の生息空間」的側面では、四季折々の特徴を調査し情報を積極的に発信
が望まれる。 - 綺麗にコース道が整備された木段もあるが一部手の入らない箇所がある。できれば、登降坂用強化集成材の共通規格を
定め、積極的全国展開できればと考える(耐候・防腐・強靱などで優れた強化集成材は高価だが量産体制が整えば、む
しろ 総コストで有利になるだろう。
以上、「すべてはデザインで決まる」というジョージ・ルーカスの言葉を念頭におき思いつくままを列記する。
観音寺山こと繖山(きぬがさやま)432.7メートルの南、国道8号線と東海道新幹線が立体交差する地点に老蘇(おいそ)
の森の中に奥石神社(おいそじんじゃ)がある。祭神は、藤原氏の祖である天津児室根命(あまつこやねのみこと)。創祀に
ついて明らかではない。もともと、この神社は繖山山頂の磐座を遠拝する祭祀場として営まれたもの――由来によれば、孝霊
天皇の頃、一帯は湿地で蒲が生えていたが、石辺大連は神の援助を得て この地に松、杉、桧を植え、それが現在の老蘇の森。
である。人間が植えて作り出した鎮守 の森である。この森の中に神社を建てた。現在の建物(国重)は天正9年(1581)
建立、中世には蒲生野から転化して鎌となり鎌宮神社とよばれ 二本の鎌が社印―――であるといわれ、わたしが腰掛けて岩
は(上写真)、畏れ多くもご神体だったのか?!
夜半ならば老蘇の森のほととぎす 今もなかまし忍ぶ音のころ 本居宣長
身のよせにいつまで見ん東路の 老い蘇の森にふれる白雪 加茂真淵
● 安土山と中之湖神社
安土山(198メートル)は繖山(433メートル)の北西に張り出し、北端には大中の湖の干拓地が広がる。特別史跡に
指定された安土城跡があり、織田信長が天下統一し、天正7年(15799)に築城される。山内の各所には、武将の陣屋
を置き、安土山の最高所に日本の本格的な天守閣。西側尾根に菩提寺の見寺(そうけんじ)を造立し。天正10年(15
82)、本能寺の変で織田信長が倒れると、山崎の合戦後の混乱による兵火や土民の放火によって、城郭の大部分が消失し、
今は、見寺の二王門と三重塔が現存する。発掘調査も進み、大手道の石垣や石段などが整備、天守跡から北に延びる尾根
に沿って進むと三角点峰があるものの指定城跡から向かうことは禁止されており、また、遊歩道整備はされいない。従って、
山頂に向かうには、北側の中之湖神社(下写真)からの南下稜線のブッシュを進むしかないだろう。
● 観音正寺と繖山
観音正寺(かんのんしょうじ)は、近江八幡市安土町石寺にある仏教寺院。宗旨は天台宗系の単立。山号は繖山(きぬがさ
さん)。本尊は千手観音、西国三十三所第32番札所である。伝承によれば推古天皇13年(6055年)、聖徳太子がこ
の地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一
寺を建立。その人魚は前世が漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。寺にはその
人魚のミイラと称するものが伝えられていたが、平成5年(19933年)火災で焼失。実際に創建時期については不明で
あるが、少なくても11世紀(平安時代)には既に存在。また、元弘3年(1333年)に足利高氏(後の尊氏)に攻めら
れた六波羅探題北条仲時が後伏見・花園両院及び光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に両院や天皇の宿舎に充てられた
とする伝承がある。
また、佐々木六角氏の居城である観音寺城があり、寺は佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。戦国時代中期に六角氏により観
音寺城が改修された際に、観音正寺は山麓に移転させられたとする説がある。観音寺城は永禄11年(1568)、織田信
長の軍勢に攻められて落城。数年後には佐々木六角氏所縁の観音正寺も焼き討ちに遭い全焼した。再興されたのは慶長年間
(1596 - 1615)である。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(04年)に再建される。新たに造立された本
尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。旧本尊が1メートル足らずの立像に対し、像高3.56メートル、光背を含めた総高6.
3メートルの巨大坐像で、像はインドから輸入した23トンもの白檀から作られ、白檀は輸出禁制品であったが、観音正寺
の住職が、20数回インドを訪れ交渉し、特例措置として日本への輸出が認められたものであるという。
● 繖山と石馬寺
れ、聖徳太子が開基と伝えられている。太子がこの山の山麓に馬をつないで、山上まで自ら登りこの山の地形を観察し下山
すると馬が沼に沈み石になったのだという。その霊験をみて感動した聖徳太子が寺を建立したのが石馬寺の始まり。推古2
年(594年)、摂政の聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場
を求め、繖山の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲※たな
びき風光明媚な風景が広がる。太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動し山を下ると、松の樹につないだ駒が傍
の池に沈んで石と化していた。という、奇瑞に霊気を感じこの山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、
馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号する。
また、石と化した『石馬』も寺に至る石段下の蓮池に現存し、霊験として語り継がれ、建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、
近江源氏である佐々木氏の篤く帰依するが、永禄11年(1568)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによ
る戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとく兵火に遭う。さらに、豊臣秀吉は天下を取ると寺領及び山林を没収、山主や僧徒は
退散を命じられる。慶長8年(1603年)、徳川氏により『石馬寺』が復興。寛永11年(1634)家光公上洛にあたり、
現東近江市に造営した御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築し大方丈(本堂)とし、正保元年(1644年)11月、宮城県松島
の瑞巌寺の雲居国師を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。
※ 「瑞雲」めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲