極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

三つの国の未来

2014年04月25日 | 時事書評

 

 

  

   

【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】 

 ●里山資本主義異論

今夜も「第2章 21世紀先進国はオーストリア/ユーロ危機と無縁だった国の秘密」から。
「エネルギーの輸入は私たちにとって何の利益ももたらさない」という言葉は余りにも強烈
だ。これは「ギュッシングモデル」を確立したチャレンジャの自信と誇りの発露であり、そ
して、それは「しなやかな経済モデル」であるという。そして次の「里山モデル」として、
耐震性に優れた持続可能可能な住宅、"クロス・ラミネイティッド・ティンバー(CLT)工
法"が紹介され、日本での普及動向が注目される。


 ギュッシングモデルでつかむ「経済的安定」


  取材の最後に、ギュッシング市長、ぺーター・バダシュ氏に話を聞くことができた。
  1990年、プロジェクトの立ち上げ当初から市長を続け、取り組みをリードしてき
 たバダシュ氏。自信に満ちあふれた風格をしている。
 「エネルギーの輸入は、私たちにとって、何の利益ももたらしません。毎年、数百万ユ
 ーロがこの町から消えてしまうだけだからです。利用されないまま、何千トンもの木材
 が廃材として森の中で朽ちていくのに、なぜわざわざ数千キロも離れたところから天然
 ガスや石油を運んで家やアパートを暖かくするのか、と疑問に思ったのです。
  世界経済はある一握りの人たちによって操られています。それはあまり健全なことと
 はいえません。私たちが作り上げたモデルによって、市場を狂わせる投資家を直ちに減
 らすことはできないかもしれません。しかし、エネルギーという非常に大切な分野にお
 いて、ある程度の主導権を握ることができるのです。私たちは、『経済的安定』に向か
 って大きな一歩を踏み出したと言えるでしょう」
  別れ際、バダシュ市長は、私たちに何度も「大事なのは、住民の決断と政治のりーダ
 ーシップだ」と繰り返した。
  ギュッシングが作った新しい経済の形は今、「ギュッシングモデル」と呼ばれ、ヨー
 ロッパ各地で導入が進んでいる。(中略)20世紀の百年をかけて築かれたグローバル
 経済に対し、その歪みに苦しむ人たちが、もう一度、経済を自分たちの手に取り戻そう
 とする闘いなのである。

 「開かれた地域主義」こそ里山資本主義だ

  振り返ってみれば、20世紀の百年間は、経済の中央集権化が突き詰められていった
 時代だった。                                     
  鉄やコンクリートといった、重厚長大な産業を基盤として発展していくには莫大な投
 資や労働力の集約が必要だった。そのため、ある程度、国家主導で大資本を優遇しなが
 ら進めざるを得なかった。しかし、その目的は国民一人一人のため、というよりも弱肉
 強食が続く国際社会で、国家をより強くすることにあった。20世紀初頭においては、
 帝国主義政策における富国強兵であり、20世紀半ばには、第二次大戦後の復興と、そ
 れに続く高度経済成長。そして20世紀の後半は、グローバル経済の熾烈な競争に勝ち
 残るためであった。
  その過程で、人類は、たとえ地球の裏側からでもあらゆる物をすばやく運んでくるた
 めに、陸海空にわたる巨大なインフラネットワークを作り上げてきた。
  21世紀になると、人、物、金に飽きたらず、IT革命によって、情報までも瞬時に
 飛び交うシステムが確立されていった。しかし、その中央集権的なシステムは、山村や
 漁村など競争力のない、弱い立場にある人々や地域から色んなものを吸い上げることで
 成立するシステムでもあった。地域ごとの風土や文化は顧みられず、地方の人間はただ
 搾取されるのみであった。経済成長には、金太郎飴のようにどこもかしこも画一的であ
 る方が効率的だったのであり、地域ごとの個性は不要だったのである。

                  -中略-

  里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と
 言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域
 内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義なのである
  ここで注意すべきなのは、自己完結型の経済だからといって、排他的になることでは
 ない点だ。むしろ、「聞かれた地域主義」こそ、里山資本主義なのである。
  そのために里山資本主義の実践者たちは、20世紀に築かれてきたグローバルネット
 ワークを、それはそれとして利用してきた。自分たちに必要な知恵や技術を交換し、高
 め合うためだ。そうした「しなやかさ」が重要なのである。

                  -中略-



 鉄筋コンクリートから木造高層建築への移行が起きている

  中島さんの次なる革命は、工場の片隅でひっそりと進められていた。製造ラインはま
 だないため、手作りで試作を繰り返しているという建築材。
  一見、板を重ね合わせただけの何の変哲もない集成材。ところが、よく見ると、通常
 の集成材は、板は繊維方向が平行になるよう張り合わせているのだが、こちらは板の繊
 維の方向が直角に交わるよう互い違いに重ね合わせられている。
  その名もCLT。クロス・ラミネイティッド・ティンバーの略で、直訳すると、「直
 角に張り合わせた板」だ。それがどうしたのか。実は、たったこれだけのことで、建築
 材料としての強度が飛躍的に高まるのだという。
  中島さんがCLTによって成し遂げようとしていること。それは、これまで建築が認
 められてこなかった、木造の高層建築が可能になるというのだ。20世紀、経済成長の
 象徴であった鉄とコンクリートに奪われていた分野を、木材が取って代わろうという、
 ちょっと耳を疑う壮大な計画なのである。
 「今まで、日本の建築史において、長年木材が占めてきた分野が、戦後は鉄やコンクリ
 ートなどによって、奪われっぱなしだった側面があるかと思います。しかし、このCL
 Tの登場によって、四階建て、五階建て、場合によってはそれ以上の中規模なビルまで
 木材で造ることが可能になるんです」
  こう言い切る中島さん。それは、中島さんが取り組む本のエネルギー利用にとっても、
 大きな意味がある。工場で使う電気を全てまかなう木くずの発電。町全体のエネルギー
 をまかない始めたペレット。その利用をさらに拡大していくためには、そもそもベース
 となる建材需要の拡大が欠かせない。エネルギー利用と建築材利用。日本の山を復活さ
 せるためのいわば車の両輪なのである。
  そのCLTが誕生したのは、2000年頃。これまた本村利用先進国であるオースト
 リアからだった。「百聞は一見にしかず。実際にその現場を見に行きましょう」。中島
 さんの言葉に誘われて、私たちは再びオーストリアを訪れることになった。亜紀先進国
 はオーストリア。

                  -中略-


 ロンドン、イタリアでも進む、木造高層建築

  CLTはもともと、1990年代、ドイツの会社で考え出されたものだったらしい。
 しかし、その会社には製材部門がなかったため、その技術は1998年、オーストリア
 南部のカッチュ・アン・デア・ムアという、小さな村にある製材所が採用した。そして、
 オーストリア第二の都市・グラーツにあるグラーツエ科大学の協力を得て、技術に改良
 が加えられていった。CLTで壁を作り、ビルにしたところ、鉄筋コンクリートに匹敵
 する強度を出せることが分かったのである。それは、高層ビルは鉄とコンクリートで遣
 らなければならない、という常識を覆した。そこからオーストリア政府の動きは早かっ
 た。木造では2階建てまでしか建てられないとしていたオーストリアの法律が、200
 0年、改正されたのだ。今は9階建てまで、CLTで建設することが認められていると
 いう。
  以後、それまでは石造りが基本だったオーストリアの町並みが木造へとシフトしてい
 く。CLT建築は、単に強度に優れるだけでなく、夏は署く、冬は寒い石造りや鉄筋コ
 ンクリートより快適な住環境を提供した。オーストリアの片田舎で生まれた技術は、ヨ
 ーロッパ各地に伝播。生産量はヨーロッパ全体で、七年間で20倍、50万立方メート
 ルに増え、ヨーロッパにおける建材生産量四百万立方メートルの八分の一を占めるまで
 成長した。ロンドンにはなんと、九階建てのCLTビルまで登場している
  日本人が知らないうちに、ヨーロッパはこんな世界までたどり着いているのか。エネ
 ルギー同様、そのスピード感には驚かされる。それが素直な感想だった。と同時に、あ
 る当然の疑問が湧いた。木で遣ったビルなど、地震が来たら危ないのではないかと。
  ところが、日本と同じ地震国であるイタリアでも、急速にCLTが普及し始めている
 のだ。
 イタリアにある国立森林・木材研究所が、地震にも強いことを実験によって証明したか
 らである。実は実験は日本で行われた。2007年、兵庫県三木市にあるE1ディフェ
 ンスと呼
 ばれる世界晨大規模の耐震実験施設、そこに七階建てのCLT建築を持ち込み、阪神淡
 路太腹災と同じ震度七の揺れを加えたところ、みごと耐え切ったのである。
  300人以上が犠牲になった2009年の中部・ラクイラ地震のあと、イタリアでは、
 大半の建物がCLTで建てられるようになったという。ミラノには近々、13階建ての
 CLT建築も登場するとのことだった。
  火事への備えも万全。耐火の試験も重ねられ、CLT建築の一室で人為的に火災を発
 生させたところ、60分経っても、炎は隣の部屋に燃え広がらないどころか、少し室温
 が上がったかなという程度だったらしい。何から何まで驚かされる。私たちはいつの間
 にか、木造は火事や地震に弱いと思い込んでしまっていたのである。今、ヨーロッパで
 は逆に、CLTこそ、高層建築にぴったりの建材だと考えられるようになっている。

                  -中略-



 産業革命以来の革命が起きている

  視察の最後に訪ねたのがウィーンエ科大学。木造建築の第一人者・ヴォルフガング・
 ヴィンター教授に話を聞いた。ヴィンター教授は、鉄筋コンクリートから木造建築への
 移行は、単なる建築様式の変更と捉えるのではなく、産業革命以来の革命と言っても過
 言ではないと熱弁した。
 「19世紀、産業革命がありました。石油や石炭など、無尽蔵だと信じられてきたエネ
 ルギー資源に支えられて得たものは、機械、大規模ユニット、ロジスティックス、すべ
 て大規模でした。エネルギー資源が産業革命の原動力だったのです。20世紀を通して、
 私たちは、セメントと鉄鋼を生産するために、石炭や石油など多くのエネルギーを費や
 しました。セメントや鉄の生産には途方もない額の投資が必要です。工場は巨大で、た
 いていの国であれば、一つの国に一つあるかどうかでしょう。そうして20世紀の人類
 は発展してきました。
  ところが、今日ではエネルギー資源はあまりありませんから、この星にある自然が与
 えてくれるもので私たちは生活しなければなりません。この思考の大転換こそが真のレ
 ボリューション(革命)です。そうした値命に木材産業はうってつけなのです。森林は
 管理し育てれば無尽蔵にある資源だからです。
  その結果、経済は必然的に国家中心から地域中心になっていきます。製材業はたいて
 いファミリー企業です。原料の調達も、せいぜい200~300キロ圏内でまかなえま
 す。生産には多くの人手がかかります。ようするに、木材は、投資は少なくてすむ一方、
 地域に多くの雇用が発生する、経済的にもとても優れた資源なのです」

 日本でもCLT産業が国を動かし始めた

  しかし、日本に戻ってみると、CLTを普及させようという中島さんの夢には大きな
 壁が立ちはだかる。建築基準法上、3階建て以上の木造建築は制約が多いのだ。日本で
 は、ヨーロッパ以上に、飛躍的な経済成長を支えた立役者である鉄やコンクリートに対
 する信仰が篤く、貧しさの象徴であった木造に意識を転換するのは容易ではない。
  最近でこそ、2010年、日本の国産木材の普及を図ろうと、「公共建築物等におけ
 る木材の利用の促進に関する法律」が策定され、学校など、公共建築物等の木造化か進
 められてきた。しかし、毎年、新規に着工される公共施設のうち、木造はわずか8・3
 %にとどまっている上、公共施設だけでは爆発的な木材需要の向上は期待することもで
 きない。
  そうした現状を打破しようと、中島さんは、2012年1月、鹿児島、鳥取の製材会
 社と連携し「日本CLT協会」を設立。中島さん自ら会長に就任し、本格的な普及に向
 け、乗り出した。
  「日本の林業や製材をペースにした木材産業の新しい突破口になる。地域にも風穴が
 開くし、林業・木材産業にも新しい風を送り込めると信じています」
  
永田町や霞が開などにたびたび足を運び、国会議員や行政に法改正の必要性を訴えて
 きた。
  バイオマス分野で大きな実績を残してきた中島さん、少しずつ、思いが届き始めてい
 る。2012年2月。中島さんが念願していたある実験が、国土交通省の主導によって
 行われた。場所は、茨城県つくば市にある防災科学技術研究所。兵庫県のEIディフェ
 ンスと並び、日本が誇る大規模な耐震実験施設である。
  持ち込まれたのは、CLTパネルを使った三階建ての建物(荷重により5階を想定)。
  建築材は中島さんが提供した。中島さんはあえて、震動に弱いとされる杉で作ったC
 LTパネルを用意した。うまくいけば、国産材の半分を占める杉の活用に道が開けると
 考えたからである。百人以上の関係者が見守るなか、建築基準法が耐震基準とする震度
 6弱の揺れが加えられた。がたがたと大きな音を立ててきしむCLTのビル。しかし、
 最後まで倒れなかった。専門家が時間をかけて内部をチェックしたが、目立ったひび割
 れも見つからなかった。
 「もうちょっと揺らして欲しかった」と、ほっとしつつもいたずらっぽい笑顔で語る中
 島さん。実用化に向けて、大きな一歩を踏み出した瞬間だった。今後、さらなる耐震・
 耐火の実験を繰り返しながら、2年後の法改正、実用化を目指すことになった。
  そうなると、いてもたってもいられない中島さん。なんと、法改正を待たないまま、
 自らトリアの工場の一角に1500万円をかけて、CLT専用の製造ラインを追ってし
 まった。
 「それじゃ、やります」
 2011年6月、ラインが完成し、試験運転が行われた。がたがたがた。初めてのCL
 Tパネルが機械から流れ出てきた。
 もちろん、今の段階でいくらCLTパネルを生産しても、すぐに建てることはできない。
 当面は、今後行われる、耐火や耐震の実験に提供する材料を製造することが目的。だが、
 建築基準法には「大臣認定」という制度があり、特別な手続きを経れば、建設も全く不
 可能というわけではないらしい。
 噂を聞きつけた大手住宅メーカーなどから早くも問い合わせが来ているという。
 「おおげさにいえば、里山革命じゃないですけど、CLTを一つの道具にしたいと思い
 ます。

                          藻谷浩介 著『里山資本主義』

                                この項つづく
 



【米国・日本・韓国が成長すれば世界は良くなる?!】

●「愚韓新論」の愚?!

 


さて、先回は安重根に対する相違ついて簡単に触れてみた。今回は、アジア危機で経済再編
に遭遇する韓国について、英米流金融資本主義を三橋貴明流に
解説する。


 韓国がアジア通貨危機で失ったもの

  アジア通貨危機は、一般にはタイに対するヘッジファンドの投機売りに始まったと考
 え
られている。1997年5月14日ヘッジファンドがタイ・パーツに対する浴びせ売
  りを
開始した。これに対抗し、タイ中央銀行は通貨引き下げを阻止するため外貨準備を
 切り崩
し、買い支えを試みたが、またたくまに底をついてしまった。
  為替防衛戦争に敗北したタイ政府が7月2日に変動相規制を導入すると、それまで1
  ド
ル24・5バーツだった為替レートが、わずか一日で29パーツ台にまで急落した。
 この後、
通貨危機はフィリピン、インドネシア、マレーシア、そして韓国へと拡犬して
 いく。

  実は、韓国の中央銀行(韓国銀行は自国の政府に対し、1997年の3月時点(タイ
 バーツ暴落開始
2ヵ月前)から、繰り返し将来的な通貨危機到来について警告を発して
 いたので
ある。韓国が通貨危機の渦に巻き込まれ、IMF管理下に入る8ヵ月以上も前
 から、
は自国の危機について正確に察していたことになる。
  1997年の3月から10月までの7ヵ月間、韓銀は幾度となく青瓦台(韓国大統領官
 邸)
及び財政経済部に対し警鐘を鳴らし続けた。これを韓国の政府当局はほぼ黙殺した
 わけだ
 が、それはなぜだろうか?
 「韓国だから」というシンプルな回答が返ってきそうだが、実際にはこの1997年と
 い
う時期が問題だったように思われる。
  1997年のこの時期は、韓国大統領選挙の真っ只中で、与党系と野党系の候補者た
 ち
が入り乱れた選挙戦を展開している最中だったのだ、韓銀からの警告は、当然、韓国
 大統
領や与党首脳部の耳に届いていただろうが、選挙戦の最中に大統領が、「わが国は
 通貨危機に直面している」
などと声明を出した日には、経済政策の責任を追及され、与
 党系候補者の敗北は必至で
ある。大統領選挙と経済危機の時期が重なるとは、運が悪か
 ったといえば、いえないこと
もないが、韓国は日に日に危険度が高まる中、政治不在の
 まま通貨危機という谷底への道
を転げ落ちていった。
  タイの通貨危機の衝撃が覚めやらぬ中、まずは7月に起亜自動車が不渡りを出し、韓
 国
の金利上昇が始まったご為替市場の不安が資本市場に広がりを見せるのにあわせ、金
 利はロケットブースターを装備したごとく急L昇し、最終的には31・1%というとて
 つも
ない金利水準にまで達したのである。しかも、この金利水準も韓国の超優良財関数
 社だけ
に適用できた利率で、韓国のほぼすべての企業は、社債をまったく発行できない
 状況に陥っ
ていた。
  為替レートのほうであるが、1997年初頭はIドル844ウォンの水準であった。
 日
に日に危機が深刻化し、通貨安圧力が強まる中にあっても、韓銀の通貨防衛が効を奏
 し、
なんとか夏の終わりまでは800ウォン台を維持していたのだ。
  ところが、1997年10月を迎えると、韓国の対外信用が急降下。韓銀の介入余力が
 尽
きたことも重なり、外為市場は深刻な麻憚状態に陥ってしまう。
  そして翌月に入ると、韓国ウォンの為替レートはIドル1000ウォンの壁を突破し
 た。
韓国社済に対する外国人投資家の不信感が高まった結果、外貨流出、いわゆるキャ
 ピタル
フライトが本格化し始めたのである。
  ウォンはこの後、止まるところを知らずに下落を続け、IMFや先進諸国の支援方針
 が
発表される直前の12月下旬には、Iドル1995ウォンの最安値を記録した。7月の
 水準
から、ウォンの価値は対ドルで半分以ドに下落してしまったわけだ。
  韓国は政府がデフォルトする寸前に、日本及びIMFからの緊急融資により款われた。
  その後、韓国経済はIMFにより構造を大きく変えられることになる。
  1997年10月より本格化した韓国の通貨危機は、キャピタルフライトから通貨暴
 落、
韓国国内の外貨不足、信用収縮と、まるでブレーキのない暴走機関車のごとく爆走
 していっ
た。資金が枯渇してしまった銀行は、企業からの貸し剥がしを始め、それまで
 の優良債権
までもが不良債権化する悪循環に陥ってしまった。
  翌1998年、韓国のGDP成長率は5・7%のマイナス成長に終わった。通貨暴落
 を
受け、一人当たりGNP(ドルベース)も6823ドルと、前年比でなんと33%も
 下落して
しまったのである。
  韓国はIMFや日本などから外貨融資を受けるのと引き換えに、緊縮財政、財閥解体
 (実
際には財閥は消滅しなかったが)、金融の自由化などの条件を呑まされた。時系列
 で書いておくと、

 11月10日 ウォンの対ドルレートがIドル1000ウォンの壁を突破
 11月22日 韓国政府がIMFに緊急支援を要請したことを発表
 12月04日 韓国政府がIMFとスタンドバイ協定締結

 となる。スタンドバイ協定とは、IMFが破綻国(対外負債返済不能国)の短期的な国
 際
収支の問題に対処するための協定になる。スタンドバイ協定に草づく資金供給(貸付)
 は、
IMFによる融資の中でもっとも高額だ。IMFとスタンドバイ協定を結んだ国は、
 さま
ざまな「構造調整計画」を強要され、事実上、国家主権を(一時的に)喪失する。
 ちなみにこの当時から、韓国の通貨危機は、日本の金融機関が韓国から資金を引き揚げ
 たために起きたという、いわゆる「日本責任論」が、まことしやかに流されていた
 「日本責任論」は後に、韓国の国会聴聞会で検証される政治問題にまで発展した。だが、
 韓国の金融当局の資料に、金融危機時に日系金融機関が最後まで協調融資に応じるなど、
 韓国市場に義理を果たそうとした事実が記載されており、「日本責任論」は明確に否定
 さ
れたわけである。
 ところが、一部の韓国人は今でもIMF管理下に陥ったことについて「日本責任論」を
 信じている。逆に、日本が通貨危機の際に、一国としては最大規模の援助を韓国にした
 こ
とを信じていないし、認めてもいない。
 韓国人は、IMF管理に陥ったことを恥と考えており(たしかに、大恥だが)、それが
 自分たち
の無能が原因であったことを認めたくないがため、日本に責任を転嫁している
 わけで
ある。
 「漢江の奇跡」のようなポジティブな出来事は、すべて自分たちの手柄、経済破綻のよ
 う
なネガティブな出来事は、すべて日本のせい。これが韓国人の基本的なマインドだと
 思っ
ておけば、まず間違いない。
  いずれにせよ、韓国はIMFや日本からの融資を受け、IMFの信託統治国になった。
  IMF信託統治国韓国では、まさに社会を根底からひっくり返すかのごとき「大改革」
 が実施された。特に、その後の韓国経済に大きな影響を与えたのは、財閥の整理・統合
 及
び「ビッグディール」(後述)である。





 銀行の融資が凍結状態の中、韓国では倒産ラッシュが始まり、1997年12月の不渡
 り
企業件数は、3197社と過去最悪の水準を記録した。企業倒産が激増した結果、当
 然な
がら失業率も悪化する。98年の平均失業率は7%に上昇、家事手伝いなどの不完全
 就業者
を加えると、失業者数は400万人を突破したと考えられている。
  また、株価とウォンの為替相場が急落した状況で、IMFに金融の自由化を強制され
 た
ため、外国資本による韓国企業の株の買占め、M&Aが激増することになった。サム
 スン
電子、国民銀行、ポスコなどの超大手企業が外資の手に落ちると同時に、財閥の解
 体や再
編が進められた。主なところでは双龍財閥の分離売却、コピョングループの解体、
 韓火財
閥の子会社切り売りなどである。
  さらに通貨危機の元凶の一つであった金融部門では、大東銀行、忠清銀行、京畿銀行
 など、債務超過の銀行が強制整理され、生き残りの都市銀行に業務移管された。もちろ
 ん、
移管された銀行側の従業員たちに「職の保障」などあるわけもなく、続々とリスト
 ラクチャリングが進み、さらに失業率が高まった。

  IMFによる構造改革は、韓国国民の幸福と福祉を犠牲に容赦なく進み、企業の過剰
 債
務や銀行の不良債権問題は、徐々に(強制的に)解決されていった。中でもその後の
 韓国経
済に多大な影響を与えたのは、生き残り財閥間の事業交換、いわゆる「ビッグデ
 ィール」
である。
 韓国における経済危機の原因の一つに、各財閥が他社を模倣し、相手が進出したところ
 に自分も進出する多角化を互いに繰り返したため、各市場でプレーヤーが多くなりすぎ
 た
ことがあった。
  というわけで、TIMFの指導に基づき、韓国政府は財閥企業の各事業について、強
 制的
に整理することを決断したのである。財閥系企業の業績不振な事業、あるいは系列
 子会社
を交換させ、得意分野に注力させることで業績を引き上げる戦略である。
  もっとも有名なビッグディールは、サムスン、現代、LGの3財閥間で行われた。サ
 ム
スン自動車を現代財閥に、現代石油化学をLGに、LG半導体をサムスンに、それぞ
 れ3
財閥が譲渡するというものであった。
  IMFの施策は多大なる苦しみを韓国目民に与え、国民感情を大いに傷つけたものの、
 過剰債務、不良債権、低生産性、参入過多などの韓国の構造問題を解決することに成功
 した。

  IMF管理はたしかに劇薬ではあったが、闘病の苦しみの後、韓国は曲がりなりにも
 成長
路線に復帰することができたのである。しかも、韓国ウオンが暴落したことを受け、
 財閥
整理やビッグデイールにより身軽になった韓国財閥企業の国際競争力は一気に上昇
 した。

  もっとも、韓国経済はIMF管理を通じ、完全にアメリカ経済にビルトインされてし
 まっ
たことについても触れておかなければならない。韓国の銀行や大手企業の株式の多
 くが外
国資本の手に落ち、借金による消費拡大や貯蓄率の急低下、自由競争による貧困
 層の大量
生産など、韓国のアメリカ化が急速に進んだ。アジア通貨危機とIMF管理に
 より、韓国
の民族資木がほぼ消滅した以上、経済政策は実質的に外国の巨大資本や、多
 国語企業の意
向を大きく反映したものにならざるを得ない。
  もはや韓国人は韓国経済の持ち主ではなくなった。



                     「第1部 経済・ビジネス編」 / 三橋貴明 著『愚韓新論』 より

                                                   この項つづく


※三国間の「21世紀の経済成長」の「再定義」とその「合意形成」が重要。

 

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