昨日の写真は、3月11日のものだが、13日に照ちゃんがたまたま来て手伝ってくれたので、ベニヤ板を夜までかかって張ってから翌朝、避難してきた。
ところが、四月七日だったかの余震のほうが、揺れが強くて、且つ揺れ方が悪く、壁がさらに落ちて、佐藤元大工さんが、トタンを張ってくれていた。この余震で、江戸時代の建物のほうの壁がさらに落ちたり割れたりして、その後四月末から五月初旬にかけて行った時には、落ちた土壁を拾って掃くのにとどめてきた。壁土のなくなったこの壁面は支えがないから、四月七日の余震で倒れそうに傾いでしまっている。
登米の街全体を見渡しても、漆喰壁のある古い家が皆やられていた。特に土蔵は目も当てられない状況である。
今回は、動いた墓石と、倒れた灯籠を元に戻し、墓石に芯を入れてもらって、倒れにくくし、次ぎに間もなく来ると言われる宮城県沖地震に備えることにした。3月11日の地震は宮城県沖地震とは違うと、学者達がテレビで言っているのだ。志津川や歌津の津波をかぶった墓地の墓石は殆ど倒れていたから、それに比べれば、大した被害ではないのかもしれない。
全面改修してもまたこれでは、賽の河原の石積みであろう。
それにつけても、この津波被害と言い、地震と津波による原発被害と言い、学者に言うのは酷かもしれないが、防災事業に関わっている学者はまるで役に立っていない。学問は直ぐに役に立つものではないと言えば、それで良いのかもしれないが。
ところが、四月七日だったかの余震のほうが、揺れが強くて、且つ揺れ方が悪く、壁がさらに落ちて、佐藤元大工さんが、トタンを張ってくれていた。この余震で、江戸時代の建物のほうの壁がさらに落ちたり割れたりして、その後四月末から五月初旬にかけて行った時には、落ちた土壁を拾って掃くのにとどめてきた。壁土のなくなったこの壁面は支えがないから、四月七日の余震で倒れそうに傾いでしまっている。
登米の街全体を見渡しても、漆喰壁のある古い家が皆やられていた。特に土蔵は目も当てられない状況である。
今回は、動いた墓石と、倒れた灯籠を元に戻し、墓石に芯を入れてもらって、倒れにくくし、次ぎに間もなく来ると言われる宮城県沖地震に備えることにした。3月11日の地震は宮城県沖地震とは違うと、学者達がテレビで言っているのだ。志津川や歌津の津波をかぶった墓地の墓石は殆ど倒れていたから、それに比べれば、大した被害ではないのかもしれない。
全面改修してもまたこれでは、賽の河原の石積みであろう。
それにつけても、この津波被害と言い、地震と津波による原発被害と言い、学者に言うのは酷かもしれないが、防災事業に関わっている学者はまるで役に立っていない。学問は直ぐに役に立つものではないと言えば、それで良いのかもしれないが。