先日の電話は早とちりで、最高裁弁護士ヴァルマー博士は、ジャバルプルには来ないと分かった。
となると、瀬戸内寂聴『デスマスク』の校正を誰に見せるかだ。
今までのインド人に見せた経験によると、かなりそれぞれの力に問題があり、ヒンディー語を出来るという人は意外と少ない。依然住んでいたワルダの大学で、ヒンディー語を教えている教師でもヒンディー語の博士課程を終った学生でも、私が見ても明らかな間違いをしていたりする。
翻訳というのは、原文があるので、それに引っ張られたヒンディー語訳になるから、ヒンディー語としては、あまりこなれない訳もあるが、それを面白いと感じられるかどうかも、その人の性格にもよって、認める認めないが起こる。であるから、本来は、共訳者と一緒に討論しながらするのがいいのだが、それには相当の時間もいる。ワルダにいる間にその共訳を討論しながら、翻訳したビールパールシン、ヒンディー文学科教授が、最終稿を見せたら、かなり間違いがあるから、共訳者から外してくれというので、私自身がもう一度見たら、確かに彼の訳したところに間違いがいくつかあり、それは私が直したが、さらにそれを文学の素養のあるインド人に見てもらいたいのだ。
昨日は、文化祭タラングを見て来た。写真は、路上絵画競技で一位の作品だ。色々な競技があった。
となると、瀬戸内寂聴『デスマスク』の校正を誰に見せるかだ。
今までのインド人に見せた経験によると、かなりそれぞれの力に問題があり、ヒンディー語を出来るという人は意外と少ない。依然住んでいたワルダの大学で、ヒンディー語を教えている教師でもヒンディー語の博士課程を終った学生でも、私が見ても明らかな間違いをしていたりする。
翻訳というのは、原文があるので、それに引っ張られたヒンディー語訳になるから、ヒンディー語としては、あまりこなれない訳もあるが、それを面白いと感じられるかどうかも、その人の性格にもよって、認める認めないが起こる。であるから、本来は、共訳者と一緒に討論しながらするのがいいのだが、それには相当の時間もいる。ワルダにいる間にその共訳を討論しながら、翻訳したビールパールシン、ヒンディー文学科教授が、最終稿を見せたら、かなり間違いがあるから、共訳者から外してくれというので、私自身がもう一度見たら、確かに彼の訳したところに間違いがいくつかあり、それは私が直したが、さらにそれを文学の素養のあるインド人に見てもらいたいのだ。
昨日は、文化祭タラングを見て来た。写真は、路上絵画競技で一位の作品だ。色々な競技があった。