吉田たくろうが31年ぶりにつま恋でコンサートをひらいた。
その様子をNHKで放送していたので、ビデオに録って見た。
たくろうは60歳。還暦だというのに若々しい顔をしていた。
「お…いい顔になってるジャン」と思った。
若い頃、好きでよく聴いたものである。そこで、ふ…と思い
だしたのが「甚兵衛」だった。
20代のまんが家予備軍の頃、東京近郊に住んでいて、
近くのM乳業という会社でアルバイトしていた。
アパートに帰る途中に「甚兵衛」という店の前を通る。
その名の通り、黒い格子戸の入り口、黒い窓のサン、など
いかにもガンコ親爺がやっているという風の、どっしり
した和風の店である。
一度入ってみたいなあ…と思いつつ我がふところ具合を考え、
入れずにいたが、ある日バイト代が入ったので、思い切って
「甚兵衛」の戸を開けて暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」カウンター越しに声を掛けたのは、
以外にも30代とおぼしき女性だった。
それが「甚兵衛」のママとの初めての出会いだった。
前髪は眉までのおかっぱで、後ろは肩までのストレート、
きゃしゃでスッキリした人だった。
驚いたのは、かかっている曲がたくろうだったのである。
この大衆割烹風の店で以外に合っていたのに驚いた。
他に陽水・小椋佳などである。酒は旨く、料理もおいしく、
値段もこれでいいの?と思うほど安かった。
私はいっぺんに気に入ってしまった。
その後入ってきた客はほとんどが若い客で、みんなたくろうが
好きだった。
「わたしねえ、たくろうが好きな人はわかるのよ」と私の
顔を見つつニッコリ笑ってママはそう言った。
以来、飲み代があれば「甚兵衛」へと足が向いた。
若い客たちは、ギターなど持ってきて、たくろうを歌った。
こうしてたくろうを通じて楽しい飲み仲間ができた。
ママは好きなときに店を開け、3~4日続けて休むことも
珍しくなかった。「あ~あまた休みかい…」と寂しく店の前を
通り過ぎるのだった。
ある日「甚兵衛」に入っていくと、40~50代の変なオッサン
がカウンター内に陣取り、ビールの栓など抜いていた。
ママはちょっと離れて、やや不機嫌。何となく気まづい
雰囲気が漂っていた。後から入ってきた常連に聞いてみると、
ちょっと目配せをして、親指を立てた。
その日は、早々に切り上げて家路についた。
あのオッサンはそれっきり姿を見せることはなかったが、
ママの生き様の一端を垣間見た気がした。
それからも「甚兵衛」にはよく行ったが、ある日を
境に「甚兵衛」は店が開かなくなった。
それからどれ位経ったのか、ある日M乳業のバイトに行くと、
なんとバイト先に「甚兵衛」のママから電話が入ったと
いうのだ、その日私は休みで会社にいなかったのだ。
すぐにバイトを終えて「甚兵衛」に行ったが、引き戸は
鍵が掛かり、店は深閑として人の気配はなかった。
私はすごすごと引き返した。
それから度々「甚兵衛」を覗きに行ったが、二度と
店が開くことはなかった。そして再び「甚兵衛」の
ママにも会うことはできなかった。
あれから何年経ってしまったのか、たくろうの
つま恋のコンサートのビデオを見つつ、思い出を巡っていた…。
たくろうという歌い手によって、こんなつながりが時空
を越えてもたらされているのである。
また一つ歌のすばらしさを思い、絵描きの私は少なからず
嫉妬した。
「甚兵衛」のママはどうしているのか…ふと思う
秋の夜長だった。
その様子をNHKで放送していたので、ビデオに録って見た。
たくろうは60歳。還暦だというのに若々しい顔をしていた。
「お…いい顔になってるジャン」と思った。
若い頃、好きでよく聴いたものである。そこで、ふ…と思い
だしたのが「甚兵衛」だった。
20代のまんが家予備軍の頃、東京近郊に住んでいて、
近くのM乳業という会社でアルバイトしていた。
アパートに帰る途中に「甚兵衛」という店の前を通る。
その名の通り、黒い格子戸の入り口、黒い窓のサン、など
いかにもガンコ親爺がやっているという風の、どっしり
した和風の店である。
一度入ってみたいなあ…と思いつつ我がふところ具合を考え、
入れずにいたが、ある日バイト代が入ったので、思い切って
「甚兵衛」の戸を開けて暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」カウンター越しに声を掛けたのは、
以外にも30代とおぼしき女性だった。
それが「甚兵衛」のママとの初めての出会いだった。
前髪は眉までのおかっぱで、後ろは肩までのストレート、
きゃしゃでスッキリした人だった。
驚いたのは、かかっている曲がたくろうだったのである。
この大衆割烹風の店で以外に合っていたのに驚いた。
他に陽水・小椋佳などである。酒は旨く、料理もおいしく、
値段もこれでいいの?と思うほど安かった。
私はいっぺんに気に入ってしまった。
その後入ってきた客はほとんどが若い客で、みんなたくろうが
好きだった。
「わたしねえ、たくろうが好きな人はわかるのよ」と私の
顔を見つつニッコリ笑ってママはそう言った。
以来、飲み代があれば「甚兵衛」へと足が向いた。
若い客たちは、ギターなど持ってきて、たくろうを歌った。
こうしてたくろうを通じて楽しい飲み仲間ができた。
ママは好きなときに店を開け、3~4日続けて休むことも
珍しくなかった。「あ~あまた休みかい…」と寂しく店の前を
通り過ぎるのだった。
ある日「甚兵衛」に入っていくと、40~50代の変なオッサン
がカウンター内に陣取り、ビールの栓など抜いていた。
ママはちょっと離れて、やや不機嫌。何となく気まづい
雰囲気が漂っていた。後から入ってきた常連に聞いてみると、
ちょっと目配せをして、親指を立てた。
その日は、早々に切り上げて家路についた。
あのオッサンはそれっきり姿を見せることはなかったが、
ママの生き様の一端を垣間見た気がした。
それからも「甚兵衛」にはよく行ったが、ある日を
境に「甚兵衛」は店が開かなくなった。
それからどれ位経ったのか、ある日M乳業のバイトに行くと、
なんとバイト先に「甚兵衛」のママから電話が入ったと
いうのだ、その日私は休みで会社にいなかったのだ。
すぐにバイトを終えて「甚兵衛」に行ったが、引き戸は
鍵が掛かり、店は深閑として人の気配はなかった。
私はすごすごと引き返した。
それから度々「甚兵衛」を覗きに行ったが、二度と
店が開くことはなかった。そして再び「甚兵衛」の
ママにも会うことはできなかった。
あれから何年経ってしまったのか、たくろうの
つま恋のコンサートのビデオを見つつ、思い出を巡っていた…。
たくろうという歌い手によって、こんなつながりが時空
を越えてもたらされているのである。
また一つ歌のすばらしさを思い、絵描きの私は少なからず
嫉妬した。
「甚兵衛」のママはどうしているのか…ふと思う
秋の夜長だった。