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ぽかぽか春庭「薔薇の名前」

2012-06-20 12:00:00 | エッセイ、コラム
2012/06/20
ぽかぽか春庭十二単日記>つゆに咲く花(4)薔薇の名前

 現在は園芸種として、さまざまな薔薇が生み出されています。
 神代植物園での薔薇散歩でも、大型の花コーナー、香り高い種類のコーナーなどがあり、日本の皇族、各国の王族の名前や、カトリーヌドヌーブだのジーナロロブリジダだの女優の名前、アインシュタインだのリンカーンだの著名人の名前などがつけられて咲き誇っています。

 知り合いのマサコさんは、「プリンセスマサコ」ってのを「私のバラ」と思うことにしたって。そりゃ違うだろうって突っ込むところですけれど、マサコやミチコ、アイコの名を持つ薔薇は、それぞれ数種類あるみたい。どれがどれやら、そんなに何種類もプリンセスの名を冠した薔薇があるなら、ひとつくらい「自分の」と思い込んでもよろしいでしょう。
プリンセスミチコのひとつ

 園芸種のもとになった原種は8種類あるということですが、その中の3種類は、日本に自生していた野イバラです。ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナシが日本原産であることを知ると、なんだか薔薇の母にでもなった気分。
 神代植物園にも、「原種のバラ」コーナーがありますが、園芸種のバラが見頃のころは、もう咲き終わっていることが多いです。
野茨の花

 古代にはバラは「うまら」「うばら」と呼ばれていました。
 『万葉集』には、うまら、うばらの歌は二首あります。

美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟(巻二十4352)
道の辺の茨の末に延ほ豆の絡まる君をはかれか行かむ(丈部鳥はせつかべのとり)
(みちのへの うまらのうれに ほほまめの からまるきみを はかれか いかむ)
道の辺のイバラの先にからまる豆のつるのように、わたしに絡まりついて離れないあなたを、ひとり置いていかねばならないのだろうか

 うまらは、野の花ですから、飛鳥や奈良の都会人にはあまり取り上げられなかった花ですが、道ばたに咲く野辺の花を見ている人が、恋しい人を思いながら詠んだのだろうと思います。
 作者の丈部鳥は、天羽郡(あまはのこほり)の上丁(かみつよぼろ)。千葉県富津市辺りに住んでいて、上級の丁(課役を担う壮年)として仕えた人。東路の野辺に咲いたイバラが目に浮かびます。

枳 蕀原苅除曽氣 倉将立 屎遠麻礼 櫛造刀自(巻十六3832)
からたちと、茨刈り除け、倉建てむ 屎遠くまれ櫛造る刀自(忌部首(いむべのおびと)
(からたちと うばら かりそけ くらたてむ くそとおくまれ くしつくる とじ)

(からたちとバラの木を取り除いて倉を建てるぞ、糞をするなら遠いところでしなさいよ、櫛を作るご婦人方)

 「數種物歌一首」という詞書きがありますので、「ここに倉を建てるから、からたちのトゲやイバラの棘にさされないよう、もっと遠くで用をたしなさいよ、櫛を造る奥様方」という、冗談の歌と解釈できますが、こういう冗談の歌を高らかに吟じて、大笑いした宴席のようすがうかがえます。 
 枳(からたち)は、中国原産。中国の橘(たちばな)の意味で「唐橘(からたちばな)」と呼ばれました。4~5月ごろ白い花が咲き、丸い実がなる。カラタチもイバラも鋭いトゲがあるので、そこで用を足したら、尻をさされてしまいます。

 「屎、遠くまれ」の「まれ」は、「まる」の命令形。「まる」は、動詞は現代語では使われず「お」をつけた「おまる」として現在も使われる古語です。
 「用心していないと、用を足すために服をからげたそのお尻に、トゲが刺さりますよ」という警告には、イバラの棘に「殿方の大きな棘」が暗喩されていて、皆が集まって酒を酌み交わす宴席などでは、こういう歌が大喝采だったのだろうなあと思います。

 ともあれ、バラは古代からずっと愛され続け、薔薇が出てくる本といえば、枚挙にいとまはありません。
 その中でも印象深いのはU・エーコの『薔薇の名前』(1981)でしょうか。と言っても、わたしは映画を見ただけで、本は文庫本がツンドクになっています。
 エーコが小説のラストに引用したラテン語の詩句、ベルナール(英語名バーナード・オブ・モーレー)の詩に「薔薇の名前」ということばが出てくるのです。

 映画の字幕での訳。
バラは神の名付けたる名、我々のバラは名もなきバラ
 映画解説の一説によると、「名もない薔薇」とは、神父ウィリアムの従者メルクのアドソが別れてしまってそれきりになった若い頃の初恋の相手(小説中では名を与えられていない)のことを暗示しているっていうんですけど、原作読んでないからわかりません。

 ラテン語解説のページによると
*stat:sto,stare(【動】立っている、存続している、留まる)の3人称単数現在:主語はrosa。
*pristina:pristinus(【形】原初の、以前の)の女性単数形。
*nomine:nomen,-minis(【中】名前)の単数奪格。
*nomina:nomenの複数対格;tenemusの目的語。
*nuda:nudus【形】裸の;単なる、ただの)の複数対格。
*tenemus:teneo,-ere(【動】握る、保持する)の1人称複数現在.
 直訳は「初めのバラは、その名により留まり、私達はその名前だけをもっている」。

(http://blog.livedoor.jp/erastos8136/archives/cat_417812.html)
 実在論に関する、深遠な哲学が含まれている詩句みたいです。

 この詩句はホイジンガの『中世の秋』に出てくるというので、本棚を探すと、一番上の天井のすぐ下の段にありました。椅子を持ってこないと手が届かない位置の棚にあったということは、この本は、この先、読むこともないだろうけれど、何かの折りに参照しないとも限らない、とみなされて一番上に上げられた本の一冊ってことです。

 『中世の秋 上』、奥付には「1976.9.16購入」と夫の字で書いてありました。あら、私の本じゃなかった。この中のⅧ「愛の様式化」という章とⅨ「愛の作法」という章に「ばら物語」という中世の物語が論じられていますが、エーコが引用した詩句がどのページにあるのか、見つかりません。

 ホイジンガは、『中世の秋』ⅩⅡ章の『すべての聖なるもののイメージ』の中に、クリスチーネ・ド・ピザンの詩句を引用しています。
 しげしげと教会まいりをするというのも、
 みんな、きれいな女をみようがため、 
 咲きたてのばらのように新鮮な。

 若者は、恋の相手を探しに教会へやってくる。中世の教会が恋の出会いの場であったり、娼婦がお客を見つける場であったりしたと、『中世の秋』には解説してあります。
 恋人探しの若造が、うっかり手練れの女の手に落ちてしまわないとも限らない。美しい薔薇は、常にトゲを持っている。

 「薔薇の名前と初恋の人」と言えば、シェークスピア。
ジュリエットは、恋しいロミオが持つモンタギューの名を思って言います。
 「名前ってなに?薔薇と呼ばれる花を別の名前にしても美しい香りはそのままだわ
What's in a name? that which we call a rose.By any other name would smell as sweet.

 薔薇の名前、、、、、「春庭」って新種ができるといいなあ。たぶん本居春庭にちなむ名だろうけれど、むろん、無断で「私の名前の薔薇」と思い込むことにします。

<つづく>
コメント (12)
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