
2013/02/06
ぽかぽか春庭@アート散歩>2012-2013冬のアート散歩(8)松本竣介展
1月6日。正月休み最後のお楽しみとして、世田谷美術館で「松本俊介展」を見ました。
竹橋の近代美術館で「Y市の橋」(上掲ポスターの絵)などを見ていて、好きな絵のひとつでしたから。
とてもよかったので、図録を買いました。「招待券で入場したときは図録を買ってもいい。お金出したときはそれ以上の贅沢はしないために、図録購入しない」という「貧乏症ルール」がありますが、「ぐるっとパス」で入場券が百円割引きになったので、ま、いいかと購入。分厚い図録なので、持ち帰りが重かったけれど、今後これほどの規模での展示が次回行われるのは、生誕150年の2062年になるか。そのときは、私はもう生きちゃいないだろうから、今回見ることができてよかったです。
図録は、絵やスケッチだけでなく、資料編が充実しています。
松本竣介が画家としてすごしたのは、わずか20年ほどの短い期間です。画歴は長くありませんでしたが、数多くの油彩や素描を残しました。今回の展示では、油彩約120点と素描約120点、スケッチ帖やメモ帳書簡といった多様な資料も展示されています。
展示の最初は、10代で描いた習作のコーナーです。中学入学してすぐに病気になり一命とりとめたかわりに聴覚を失ってしまった松本竣介。兄から与えられた絵の具に生きる喜びを見いだしたものの、まだ「自分の絵」の方向もつかめずに苦闘していた時代の絵が、若くして亡くなった叔母を追悼する肖像や、風景画として残されています。
まだ「佐藤俊介」だった松本竣介が、1928年12月17日付けの『岩手日報』に書いた詩です。
「天に続く道」
絵筆をかついで
とぼとぼと
荒野の中をさまよへば
初めて知った野中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごといひながら
私は天に続いた道を行く
一九二八・十二・十七
竣介は、東京生まれですが、父の仕事のため2歳で岩手に転居。17歳まで岩手で育ったので、自らを「岩手人、東北人」と規定していたそうです。
盛岡中学時代の友人で彫刻家となった舟越保武とは、終生の友人となりました。
1929(昭和4)年、兄・彬が東京外国語大学入学したのに伴い、5年生まであるはずの中学を退学して、兄とともに上京しました。耳が聞こえなくなっていた竣介には、一般の生徒に混じっての勉学は無理があったのです。太平洋画会研究所(のち、太平洋美術学校)に入学し、本格的に絵の勉強を始めました。
兄佐藤彬は、父が熱心な信者であった影響を受け「成長の家」の活動に従事し、1933(昭和8)年に雑誌『生命の藝術』創刊しました。竣介は、この雑誌の表紙絵を描いたり、小説や評論を寄稿しました。それらの雑誌も展示コーナーがありました。
竣介は、モジリアニや野田英夫の影響を受けつつ、独自の画風を確立していきます。
雑誌の仕事に関わるうち、竣介は松本禎子と知り合い、1936(昭和11)年に結婚。松本姓になりました。
長男ではないから養子に行きやすかったのかもしれませんが、粉糠3合あれば、養子に行かずにすむ、と言われた時代に、あえて妻の姓に入ったことに、妻禎子への深い愛情が感じられます。
松本禎子は、展示されている写真などから推測すると、相当な「モダン・ガール」です。同い年の禎子は、夫をぐいぐいひっぱっていくような強さを持っていたんじゃないかなあ、と勝手な想像をしました。耳が聞こえない竣介の保護者を自認していた兄、彬は、竣介保護者の立場を禎子にゆずった形になったのではないでしょうか。
結婚後、家族とともにいる群像の絵、「画家の像」1941「三人」1942、「五人」1943などに、妻や子とすごす時間が表現されています。
画家のモデルして夫に協力する妻が多いなか、夫のためにポーズをとったのは、「画家の像」の一回だけだそうです。禎子は禎子で雑誌の発行などで、「自分の人生」を貫く女性でした。
1944(昭和19)から、絵に書き入れるサインの漢字を俊介から竣介に変えました。画数かなんかの都合だったのかもしれませんが、厳しくなる時局の中で、「高く立つ」「成し遂げる」という意味の「竣」の字が、強い意志を示しているように思えます。
1942年制作の自画像「立てる像」は、松本竣介といえばこの絵が出てくるくらいよく知られていますが、きっと前方を見据える自画像は、たしかに「俊」から「竣」へと、「兄に保護される弟」から「妻と子どものために絵を描く男」への変化があるように思います。この画家受難の時代に、家族を守る力があるのか、という不安と、家族とともに生きる希望がないまぜになっている表情を見せて、画家は俊介から竣介へと変貌していったのでしょう。
立てる像

<つづく>