2013/02/07
ぽかぽか春庭@アート散歩>2012-2013冬のアート散歩(8)松本竣介と禎子
松本禎子は、夫とともに雑誌「雑記帳」を発行し、1933年の24号まで続けられました。
展示されていた「雑記帳」の中味をじっくり読んでいる時間はなかったのですが、新宿区落合にご近所さんとして住んでいた林芙美子がたびたび寄稿したほか、竣介が「同郷人」として尊敬していた宮沢賢治の遺稿もこの「雑記帳」に掲載されました。また、同時代の文筆家たち、萩原朔太郎、佐藤春夫、室生犀星、平林たい子、高見順、岡本かの子、三好達治、寺田政明、藤田嗣治、などの多彩な執筆者の随筆を載せ、最終号となった1933(昭和12)年12月号は、小熊秀雄の「風刺文学のために」を掲載しました。
「雑記帳」は、資金面での苦労のほか、拡大する戦況のもと、軍部の思想統制がきつくなる中、廃刊せざるを得なくなりました。
竣介は、廃刊を決めたあと、執筆者や読者にあてて、次のような手紙を書いています。
「今、迷信と狂気と蒙昧の荒蕪の地に放り出されてゐるに等しいと思ふのです。……ぢっとしてゐられない思ひに駆られます」
多くの画家が軍部の意向に逆らえず、迎合する者沈黙する者がほとんどだった中で、竣介は美術雑誌『みづゑ』1941(昭和16)年4月号に「生きてゐる画家」という論文を書きました。軍人が「時局と芸術」について鼎談を行い、画家にも国威発揚戦意高揚を求めたのに対して、竣介は
「画家は腹の底まで染みこんだ肉体化した絵しか描けぬ」と、書きました。
「芸術の自立」を主張することは、この時代、とても勇気のいることでした。竣介も危険な立場にたたされたわけですが、竣介の背景に政治的な団体などがないことが判明し、逮捕監禁されるようなことはありませんでした。
戦後、ようやく自由に描ける時代がきました。
戦後の焼け跡の東京に立ち、竣介は次のように書いています。
「猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのには、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である」
敗戦直後の東京の光景が「焼け跡風景」「神田付近」などに残されました。
戦後のものの無い時代でしたが、竣介は精力的に東京の街ほか、戦後の光景を描き続けました。しかし、竣介は1948年、36歳のとき、持病の気管支喘息が悪化、帰らぬ人となりました。
松本禎子は、竣介と同年生まれ。2011年11月25日死去。享年99歳。竣介が1948年に36歳で亡くなったあと、63年間を「松本竣介未亡人」として、夫の画業を守って生き抜きました。二人が共同して発行した「雑記帳」などがきちんと保存されて展示されているのを見ても、禎子夫人が並々ならぬ情熱で竣介の作品を守ってきたことが偲ばれました。
落合の松本邸は、建築家となった次男松本莞(まつもとかん)が今も住んでいます。夭折の画家などでは作品が散逸しがちですが、妻禎子が長生きしたこと、息子莞が建築家として自立し、家屋敷を売らなかったことなどが幸いして、作品は断簡や雑誌草稿にいたるまでよく保存されて展示されていました。
禎子は、竣介の早すぎた死を「画業を完成しないままの死」と捉えて悼んでいました。残された者としては「まだまだ生きて、いい絵を描き続けて欲しかった」と残念に思い続ける63年の未亡人生活であったのでしょう。
松本禎子の談話。
「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。
でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いままだいい仕事をなさっておられます。そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして、、、、。竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。
美術評論家の洲之内徹は、自身が所有する竣介の『ニコライ堂』について次のように書いています。
「突然、松本竣介の世界のこの静かさと美しさは、運命に従順な者の持つ静かさと美しさではあるまいか、という考えが浮かんできたのだった」『帰りたい風景』
「聴覚を失う」という運命の中で、竣介は音のない静かな世界の中で自分を見つめ、己の画境を貫きました。
竣介も妻も生きていれば百歳。ふたりがいっしょにすごした短い時間も、妻が夫の思い出を抱いてすごした長い時間も、「画家の像」と題された夫と妻と子の姿の中に永遠に生きています。
画家の像1941

ぽかぽか春庭@アート散歩>2012-2013冬のアート散歩(8)松本竣介と禎子
松本禎子は、夫とともに雑誌「雑記帳」を発行し、1933年の24号まで続けられました。
展示されていた「雑記帳」の中味をじっくり読んでいる時間はなかったのですが、新宿区落合にご近所さんとして住んでいた林芙美子がたびたび寄稿したほか、竣介が「同郷人」として尊敬していた宮沢賢治の遺稿もこの「雑記帳」に掲載されました。また、同時代の文筆家たち、萩原朔太郎、佐藤春夫、室生犀星、平林たい子、高見順、岡本かの子、三好達治、寺田政明、藤田嗣治、などの多彩な執筆者の随筆を載せ、最終号となった1933(昭和12)年12月号は、小熊秀雄の「風刺文学のために」を掲載しました。
「雑記帳」は、資金面での苦労のほか、拡大する戦況のもと、軍部の思想統制がきつくなる中、廃刊せざるを得なくなりました。
竣介は、廃刊を決めたあと、執筆者や読者にあてて、次のような手紙を書いています。
「今、迷信と狂気と蒙昧の荒蕪の地に放り出されてゐるに等しいと思ふのです。……ぢっとしてゐられない思ひに駆られます」
多くの画家が軍部の意向に逆らえず、迎合する者沈黙する者がほとんどだった中で、竣介は美術雑誌『みづゑ』1941(昭和16)年4月号に「生きてゐる画家」という論文を書きました。軍人が「時局と芸術」について鼎談を行い、画家にも国威発揚戦意高揚を求めたのに対して、竣介は
「画家は腹の底まで染みこんだ肉体化した絵しか描けぬ」と、書きました。
「芸術の自立」を主張することは、この時代、とても勇気のいることでした。竣介も危険な立場にたたされたわけですが、竣介の背景に政治的な団体などがないことが判明し、逮捕監禁されるようなことはありませんでした。
戦後、ようやく自由に描ける時代がきました。
戦後の焼け跡の東京に立ち、竣介は次のように書いています。
「猛火に一掃された跡のカーッとした真赤な鉄屑と瓦礫の街。それらを美しいと言ふのには、その下で失はれた諸々の、美しい命、愛すべき命に祈ることなしには口にすべきではないだらう。だが、東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払ってしまった直後の街は、極限的な美しさであった。人類と人類が死闘することによって描き出された風景である」
敗戦直後の東京の光景が「焼け跡風景」「神田付近」などに残されました。
戦後のものの無い時代でしたが、竣介は精力的に東京の街ほか、戦後の光景を描き続けました。しかし、竣介は1948年、36歳のとき、持病の気管支喘息が悪化、帰らぬ人となりました。
松本禎子は、竣介と同年生まれ。2011年11月25日死去。享年99歳。竣介が1948年に36歳で亡くなったあと、63年間を「松本竣介未亡人」として、夫の画業を守って生き抜きました。二人が共同して発行した「雑記帳」などがきちんと保存されて展示されているのを見ても、禎子夫人が並々ならぬ情熱で竣介の作品を守ってきたことが偲ばれました。
落合の松本邸は、建築家となった次男松本莞(まつもとかん)が今も住んでいます。夭折の画家などでは作品が散逸しがちですが、妻禎子が長生きしたこと、息子莞が建築家として自立し、家屋敷を売らなかったことなどが幸いして、作品は断簡や雑誌草稿にいたるまでよく保存されて展示されていました。
禎子は、竣介の早すぎた死を「画業を完成しないままの死」と捉えて悼んでいました。残された者としては「まだまだ生きて、いい絵を描き続けて欲しかった」と残念に思い続ける63年の未亡人生活であったのでしょう。
松本禎子の談話。
「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。
でもやつばり竣介は挫折したのでございます。麻生さんや難波田さんなど竣介が親しくしていただいたかたたちは、いままだいい仕事をなさっておられます。そんなかたがたの個展を拝見するにつけ感無量の思いがいたします。そして、もし竣介がまだ生きていたなら、このようなすばらしい仕事をしたろうか、ひょっとしたら絵筆をもたなくなっていたかもしれない、などと思ったりいたしまして、、、、。竣介はやっと何かをつかみかけたところで亡くなってしまいました。中途半端で死んでしまいました。哀れでございます。
美術評論家の洲之内徹は、自身が所有する竣介の『ニコライ堂』について次のように書いています。
「突然、松本竣介の世界のこの静かさと美しさは、運命に従順な者の持つ静かさと美しさではあるまいか、という考えが浮かんできたのだった」『帰りたい風景』
「聴覚を失う」という運命の中で、竣介は音のない静かな世界の中で自分を見つめ、己の画境を貫きました。
竣介も妻も生きていれば百歳。ふたりがいっしょにすごした短い時間も、妻が夫の思い出を抱いてすごした長い時間も、「画家の像」と題された夫と妻と子の姿の中に永遠に生きています。
画家の像1941
