2013/01/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(2)棒
いろはカルタのいの一番、「い」は、「犬も歩けば棒に当たる」です。しかし、昨今のこどもたちは、盆も暮れも正月もゲーム。いろはカルタで新年を遊ぶ、ということもなくなりました。
この「犬棒」は、「流れに棹さす」「情けは人のためならず」と並んで、「現在では元の意味と正反対に受け取られるようになった「成句&諺」の代表例です。
もとの意味は「犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれない」で、意味なくでしゃばると災難にあうという意味でした。しかし、 現在では、「当たる」の意味が「出くわす」「遭遇する」という意味でなく、「宝くじに当たる」「競馬の大穴が当たる」のように、思いがけない幸運があるという意味に受け取られるように変化しました。犬棒は、「用がなくても歩き回っているうちに、何か幸運にめぐりあうかもしれない」という意味で受け取られるようになりました。
「情けは人のためならず」は、若い世代には「やたらに情けをかけてやると、その人の自立心をそこない、その人のためにはならない」という解釈が広がり、「人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分もそのなさけを受けることになる」とは、思われないのです。
「流れに棹さす」は、「流れに棒を突っ込んで、流れをせき止めてしまう。船の通行が遅くなる」と受け取られるようになりました。棹を流れに入れて舟をこぐようすを見たこともない世代にとっては、「棹さす」ことによって船が進むとは思えないのも無理ありません。
「犬棒」の解釈変化も時代の流れでしかたなし。さて、この「言語文化」の流れに棹さしたら、舟は早くすすむのか、遅れるのか、、、、
現在の日本語教育において、日本語教科書の動詞可能形は、「今夜、テレビでアイドルのドラマが見られる」「正月にはお節料理がおなかいっぱい食べられる」と載っています。これに対して、私は「若い人の可能形は、見れる、食べれる、です」という現代語解説も付け加えています。
「違う」の否定形「ちがくない」、「きれいだ」の否定形「きれいくない」、「白い」の否定形「しろいじゃない」には、まだ「ちがくない、ではありません。ちがわない、ですよ」と、訂正を入れていますが、さて、これらの否定形が日本語として定着するのが、私の生きているうちになるのかどうか。100歳までは生きるつもりなので、たぶん、生きているうちに変化すると申し上げておきましょう。
二千年五千年の月日を、営々連綿と続いてきた日本語。現在の社会に、だれも紫式部が話していたのと同じ平安語を話していないように、現代と同じことばを話す人は消えていくのですし、新しい言い方新しい話し方が生まれていくのです。
しかし、その芯棒をつらぬくことばが残されていくかどうかが問題。
去年と今年を結び合わせる時間の棒を、心の中に感じるか否か。今年は去年の続き、しかし、ふたつの時間を貫く棒が、棒高跳びの棒となってしなやかに時空を飛び越えるのか、しんばり棒となって扉を閉ざすのか。
・去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(2)棒
いろはカルタのいの一番、「い」は、「犬も歩けば棒に当たる」です。しかし、昨今のこどもたちは、盆も暮れも正月もゲーム。いろはカルタで新年を遊ぶ、ということもなくなりました。
この「犬棒」は、「流れに棹さす」「情けは人のためならず」と並んで、「現在では元の意味と正反対に受け取られるようになった「成句&諺」の代表例です。
もとの意味は「犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれない」で、意味なくでしゃばると災難にあうという意味でした。しかし、 現在では、「当たる」の意味が「出くわす」「遭遇する」という意味でなく、「宝くじに当たる」「競馬の大穴が当たる」のように、思いがけない幸運があるという意味に受け取られるように変化しました。犬棒は、「用がなくても歩き回っているうちに、何か幸運にめぐりあうかもしれない」という意味で受け取られるようになりました。
「情けは人のためならず」は、若い世代には「やたらに情けをかけてやると、その人の自立心をそこない、その人のためにはならない」という解釈が広がり、「人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分もそのなさけを受けることになる」とは、思われないのです。
「流れに棹さす」は、「流れに棒を突っ込んで、流れをせき止めてしまう。船の通行が遅くなる」と受け取られるようになりました。棹を流れに入れて舟をこぐようすを見たこともない世代にとっては、「棹さす」ことによって船が進むとは思えないのも無理ありません。
「犬棒」の解釈変化も時代の流れでしかたなし。さて、この「言語文化」の流れに棹さしたら、舟は早くすすむのか、遅れるのか、、、、
現在の日本語教育において、日本語教科書の動詞可能形は、「今夜、テレビでアイドルのドラマが見られる」「正月にはお節料理がおなかいっぱい食べられる」と載っています。これに対して、私は「若い人の可能形は、見れる、食べれる、です」という現代語解説も付け加えています。
「違う」の否定形「ちがくない」、「きれいだ」の否定形「きれいくない」、「白い」の否定形「しろいじゃない」には、まだ「ちがくない、ではありません。ちがわない、ですよ」と、訂正を入れていますが、さて、これらの否定形が日本語として定着するのが、私の生きているうちになるのかどうか。100歳までは生きるつもりなので、たぶん、生きているうちに変化すると申し上げておきましょう。
二千年五千年の月日を、営々連綿と続いてきた日本語。現在の社会に、だれも紫式部が話していたのと同じ平安語を話していないように、現代と同じことばを話す人は消えていくのですし、新しい言い方新しい話し方が生まれていくのです。
しかし、その芯棒をつらぬくことばが残されていくかどうかが問題。
去年と今年を結び合わせる時間の棒を、心の中に感じるか否か。今年は去年の続き、しかし、ふたつの時間を貫く棒が、棒高跳びの棒となってしなやかに時空を飛び越えるのか、しんばり棒となって扉を閉ざすのか。
・去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
<つづく>