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ぽかぽか春庭「小石川の銅御殿」

2014-01-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/01/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(3)小石川の銅御殿

 2013年3月に埼玉県近代美術館主催の近代建築見学会に参加し、小石川の旧磯野家住宅を見学しました。
 事前レクチャーを受けた翌週、一行は、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅に集合。旧東方文化学院(現・拓殖大学国際教育会館)を見たあと、近代和風建築の中でも「銅(あかがね)御殿」として知られている旧磯野家住宅へ。

 現在は大谷美術館が管理しており、重要文化財指定後、文化庁の指導による措置、というお断りがあって、内部見学はできない、との説明がありました。一般の見学日では外部参観だけになるということは、ネットの情報を見て知っていたのですが、近代美術館と建築会埼玉支部との共催なので専門の方々が多く、内部見学もできるかもしれないというので、ほのかな期待はありましたが、やっぱりダメでした。内部見学ができるのは年に一度だけみたいです。



 銅御殿の施主は、千葉県夷隅に生まれた磯野敬、日本全国で植林事業を展開し広大な山林を所有していました。山林王と呼ばれた磯野は、設計費用も工期も、棟梁が好きなだけ時間とお金をかけてよい、という破格の条件を提示し、北見米造にすべてをまかせました。磯野の依頼を受けたとき、北見米造は若干21歳。よほど施主に信頼されての抜擢だったのでしょう。米造は全国の山を見て歩き、木曽のヒノキや屋久島のスギ、御蔵島のクワなどを「この山の木ぜんぶ」という買い方をし、また、ベルギーから輸入ガラスを取り寄せるなど、7年の歳月をかけて最高級の材料を集めました。

 施主からの設計注文は、「外観は寺院風。地震や火事に耐える建物」でした。米造は、寺院建築の構造に、耐震耐火を組み込んだ入母屋造に、銅葺きの屋根をのせました。銅板の外壁。
 書院棟と応接棟・旧台所棟が独立した構造になっており、それをつないで一軒の家にしています。棟を分けたのは、火事が出たとしても、他の棟への類焼をとどめるためでしょう。

玄関

 米造は100人の職人を統べ、床下の湿気対策、雨樋の水処理など、施主の注文に応じて工夫をかさねました。
 1912(大正元)年に竣工。竣工当時は、壁も屋根もあかがね色に輝いていたことでしょう。
 11年後、1923(大正12)年の関東大震災時に、11回も塗を重ねた内壁に一本のヒビも入らなかったそうです。

 外からしか見られないと言っても、開け放たれた障子の内部は見ることができ、縁側天井の見事な組み方など、美しい意匠を楽しめました。





 家は、山林王磯野敬から石油王中野貫一の手へ。(中野は、新潟の石油事業で財をなした人)
 ついで、この家をホテル王大谷米次郎の息子大谷哲平が購入。現在は、大谷哲平の息子大谷利勝氏が館長を務める大谷美術館が管理しています。子供時代にこの家で暮らしていたという大谷利勝さんの次女さんは「冬はとても寒い家でした」と、感想を述べていました。銅御殿の重要文化財指定後は、ガイドとしてこの家の説明掛かりを引き受けているとのこと。

 北見米造(1984(明治16)~1964(昭和39))は、大工修行をしつつ現在の蔵前工業高校にあたる学校の夜間部で建築や木工技術について学び、伝統の大工技術に近代的な設計施工技術も身につけたのだそうです。米造は茶室建築に関心を抱いて茶道修行も続け、茶名「北見宗国」。のちに、新宿区高田馬場にある茶道会館を建てました。現在は米造の子孫の北見宗峰が宗匠として指導しているということなので、たぶん、茶道会館に行けば、米造についてもっと知ることができるだろうと思います)。

 米造は、銅御殿を建てたことを死ぬまで誇りにしており、晩年の1961年に「50年後には文化財となり、100年後には国宝になる」と語っていたということです。米造がそう語ってからほんとうに50年後の2005年、重要文化財指定を受けたので、100年後の夢もかなうかもしれません。
 惜しむらくは、茶道会館のほかに米造が建てた茶室や住宅が残されていないこと。茶室などを建てたそうですが、東京大空襲などで焼けてしまったのかもしれません。銅御殿のほかの建物も見てみたかった。

 銅御殿は、当初の敷地の半分以上が売却されたり駐車場になるなど、御殿の庭としては手狭に縮小してしまったのは、時代の流れでしかたがないとして、美術館管理となって保存が継続することになりました。しかし、敷地に隣接してマンションが建てられて、日当たりや景観に影響が出ることがわかり、建設反対運動も起こされました。
 マンション建設反対運動は、銅御殿の景観保全を願う近隣の人を中心にして、建設会社側との裁判になりましたが。結局、裁判では、敗訴。マンション高さを多少減らすことなどを条件に完成しました。

 都内での古い建物は、郊外や地方や公園などに移築してしまうなどの方法があるとは思いますが、住んでいた地域の中に残せればそれに越したことはありません。
 都内に残っているうちに、もっと見て歩こうと思います。

<つづく>
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